月曜日, 5月 29, 2023

台南の母親が生まれ育った地は保存されている

先日、母親が入所している介護施設から「生活の記録」という報告が届いたが、そのなかに「私はね台湾で生まれたんですよ」という記述があった。母親は1924年(大正13年)に台湾の台南で生まれた。そして、その生家というか6歳まで育った家の一部は今でも残っている。

ご存知のように当時の台湾は日本の統治下にあり、日本政府は国策の一環として台湾で砂糖を大量に製造していた。特に台南には数多くの製糖会社があり、母親の父である祖父・久保田富三はそのなかの一つ明治製糖(後の明治製菓、現在の明治)の社員として働いていた。

明治製糖は欧米で糖業研究を学んで、東京工業大学の前身である東京高等工業学校の教授を務めていた相馬半治(1869年〜1946年)が子爵・渋沢栄一ら多くの財界人の協力を得て1906年(明治39年)に台南に設立した会社。その後明治製糖は台湾及び国内に工場を建設、その後同業他社をいくつも合併して業務を拡大していった。

  
「明治製糖株式会社三十年史」より

そんな出来たばかりの会社に1905年に東京高等工業学校(応用化学)を卒業した久保田富三は入社した。そして、入社後間もなくハワイに農夫や職工として、実際に糖業を見習うために派遣された。その後は台湾に派遣され技師として製糖に携わり、南投工場場長、總爺工場場長などを歴任している。

母親が生まれた台南は現在は人口約200万人近い大都市であるが、生まれた当時の台湾の総人口は約400万人(現在は約2500万人)。そして、1925年(大正14年)の台南市の人口は約8万3千人で、日本人は約15%にあたる約1万3千人が暮らしていた。

祖父・久保田富三が働いていた明治製糖は台南周辺に幾つもの製糖工場を持っていたが、祖父はどうやら南投工場場長と總爺工場長を歴任しているようで、總爺には明治製糖の本社および社長宅、工場長宅、社宅などがあった。そして、その總爺の明治製糖があったところは現在は総爺芸文中心という芸術文化を発信するセンターになっていて、当時の建物がそっくり保存されている。

一青妙(ひとと・たえ)の著書「台南『日本』に出会える街」の54ページには総爺芸文中心(ツォンイエ イーウェン チョンシン)には「1906年、台湾に進出した明治製糖株式会社の本社所在地。工場長の宿舎、オフィス、クラブハウスなど当時のまま残され、内部も見学ができる」と書いてある。

母親が生まれたときは祖父が總爺工場長だったか定かではないが、おそらく彼女は6歳になるまで何年かはここで育ったと思われる。それを確かめるためにもいつか訪れてみたい。

総爺芸術文化センター https://www.twtainan.net/ja/attractions/detail/4984


水曜日, 5月 24, 2023

痛風顛末記(その2)

痛風は40代以降の男性なら3人に1人はなると言わている。最大の原因は美味しものの食べ過ぎというか、プリン体を多く摂取しすぎであることは言うまでもありません。そして、今回痛風になって身に沁みたのが、水分補給が少ない人もなりやすいということでした。

では、痛風にならないために普段どうするべきかというと、第一にプリン体が多く含まれる食事をなるべく摂らないこと。第二に小まめに水分補給をすること。第三に歩くなり走るなり泳ぐなり有酸素運動をすること。第四に体重コントロールをすることである。

残念ながら私は三番目以外は怠っていると反省をせざるをえません。なかでも二番目の水分補給が足りていないことを痛感せざるをえない。というのも、私は寝ている時に足をつることがある。ひどいときはのたうち回るというか脂汗をかくことがある。足がつる要因もマグネシウム不足であり水分不足にあると言われている。そして、お酒を飲むときも他人よりあまり水を飲んでいない。そのせいか、飲み屋に行ってもほとんどトイレに行くことがなく不思議がられたりもした。

ということで、自分を戒めるためにも、今後は季節が夏であろうと冬であろうと、運動をしようとしまいと、常に水分摂取をするよう心がけたい。


火曜日, 5月 23, 2023

痛風顛末記(その1)

ちょうど2週間前の5月9日、朝起きたら左足親指のつけ根が腫れ上がり、とても歩けるような状態ではなかった。痛風の発作である。昨年10月に痛風になり、またこの4月には偽痛風にもなったが、どちらも3日で腫れも痛みも消えた。しかし、今回はとんでもなかった・・・。

9日に発作が起きて、その日はまったく身動きすらできない状態で、ひたすら腫れた箇所を保冷剤などを使って冷やし、自宅にあったロキソニンを服用した。そして、翌日、近くの医者へ行ったところ「これは時間がかかるかも」と言われた。私は1週間は覚悟したが、まさかそれが10日以上もかかるとは思いもよらなかった。

痛風には2種類あるそうだ。一つはプリン体を過剰摂取する産生過剰型、もう一つは水分補給不足の排泄低下型という。私は正直、どちらにも当てはまりそうだ。最近はビールこそ控えているが、ゴールデンウィーク期間中に、うなぎの肝、鶏の胸肉、ボタン海老などプリン体が多く含まれる食事をしてしまった。一方で、運動するときはしっかり水分補給はするものの、それ以外のときはあまり水を飲まないので、排泄低下というかもともとトイレに行く回数が少ないので、どうやら正真正銘のイタ〜イ痛風になってしまった。

ということで、発作から1週間は外出することもできず、1日3回薬を飲んで、ひたすら家で足を冷やしては水を飲む生活を強いられました。(続く)



水曜日, 5月 10, 2023

さん喬あわせ鏡(上) ~新作部屋~

一昨日(8日)は日本橋劇場で開かれた「さん喬あわせ鏡(上) ~新作部屋~」を聞いてきた。出演者と演目は下記の通り。台本はすべて中央大学教授・黒田絵美子によるもの。

柳家さん喬  「恋の夢」
柳家さん喬  「はち巻地蔵」
 〜 仲入り 〜
柳家さん喬  「らくだの馬」
柳家さん喬  「こわいろや」(声色や)

冒頭は「恋の夢」。緞帳が上がる前に客席には有名な韓流ドラマの主題歌が流れる。そして柳家さん喬が「みなさんは胸がときめく恋をしたことがありますか」などといったナレーションが入り緞帳が上がる。話の内容は「キミが好きだ」という言葉に表される恋話。斬新な構成でメルヘンチックな話ではあるが、いささか物足りなさも感じる。

「はち巻地蔵」は仲良く2体で並ぶは札かけ地蔵とはちま地蔵。そこに飲兵衛の熊五郎がやってきて愚痴をこぼす。それに対してはちまき地蔵は商売繁盛、夫婦円満、良縁成就の3つの良いことをすれば、熊五郎の願いは叶うと言う。言われた熊五郎は鉢巻を持って街へ飛び出す・・・。これはさん喬師匠をかなりイメージして描いたと思われる作品。江戸庶民の人情と情緒を簡略にするところなど見事な出来。地蔵同士の話模様も秀逸。この噺は是非ともさん喬一門、特に柳亭左龍師匠あたりに受け継いでもらいたい。

仲入り後は「らくだの馬」。「らくだ」をはじめ古典落語のネタを多様した面白いおかしの小品。

「こわいろや」は以前より聞きたいと思っていた作品。江戸時代には「声色屋」という歌舞伎役者の形態模写や声帯模写をする商売があったそうで、昭和になっても寄席にも出演していたそうである。お話はなかなか結婚ができない声色屋が友人に成りすまして女性の家へ・・・。さん喬師匠の芝居好き、踊り好きなどを上手く引き出し、それに応えたさん喬の語り、立ち振る舞いが凝縮した俊作。10年以上前に作られた噺のようなので、もはや新作というより古典なのかもしれない。