先日、母親が入所している介護施設から「生活の記録」という報告が届いたが、そのなかに「私はね台湾で生まれたんですよ」という記述があった。母親は1924年(大正13年)に台湾の台南で生まれた。そして、その生家というか6歳まで育った家の一部は今でも残っている。
ご存知のように当時の台湾は日本の統治下にあり、日本政府は国策の一環として台湾で砂糖を大量に製造していた。特に台南には数多くの製糖会社があり、母親の父である祖父・久保田富三はそのなかの一つ明治製糖(後の明治製菓、現在の明治)の社員として働いていた。
明治製糖は欧米で糖業研究を学んで、東京工業大学の前身である東京高等工業学校の教授を務めていた相馬半治(1869年〜1946年)が子爵・渋沢栄一ら多くの財界人の協力を得て1906年(明治39年)に台南に設立した会社。その後明治製糖は台湾及び国内に工場を建設、その後同業他社をいくつも合併して業務を拡大していった。
そんな出来たばかりの会社に1905年に東京高等工業学校(応用化学)を卒業した久保田富三は入社した。そして、入社後間もなくハワイに農夫や職工として、実際に糖業を見習うために派遣された。その後は台湾に派遣され技師として製糖に携わり、南投工場場長、總爺工場場長などを歴任している。
母親が生まれた台南は現在は人口約200万人近い大都市であるが、生まれた当時の台湾の総人口は約400万人(現在は約2500万人)。そして、1925年(大正14年)の台南市の人口は約8万3千人で、日本人は約15%にあたる約1万3千人が暮らしていた。
祖父・久保田富三が働いていた明治製糖は台南周辺に幾つもの製糖工場を持っていたが、祖父はどうやら南投工場場長と總爺工場長を歴任しているようで、總爺には明治製糖の本社および社長宅、工場長宅、社宅などがあった。そして、その總爺の明治製糖があったところは現在は総爺芸文中心という芸術文化を発信するセンターになっていて、当時の建物がそっくり保存されている。
一青妙(ひとと・たえ)の著書「台南『日本』に出会える街」の54ページには総爺芸文中心(ツォンイエ イーウェン チョンシン)には「1906年、台湾に進出した明治製糖株式会社の本社所在地。工場長の宿舎、オフィス、クラブハウスなど当時のまま残され、内部も見学ができる」と書いてある。
母親が生まれたときは祖父が總爺工場長だったか定かではないが、おそらく彼女は6歳になるまで何年かはここで育ったと思われる。それを確かめるためにもいつか訪れてみたい。
総爺芸術文化センター https://www.twtainan.net/ja/attractions/detail/4984