水曜日, 2月 13, 2019

安藤広重と歌川広重は二刀流?

子供の頃『東海道五十三次』の作者は安藤広重と覚えていた。それがいつの頃からか安藤広重という名は使われなくなり、作者は歌川広重と言われるようになった。もちろん安藤広重と歌川広重は同一人物である。では、なぜ安藤広重が歌川広重になったのかをちょっと調べてみた。

広重は江戸の八代洲河岸の定火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として生まれた。下級武士である。広重は幼名を徳太郎といい、のちに重右衛門、鉄蔵また徳兵衛とも名乗った。つまり彼の本名は安藤徳太郎もしくは安藤重右衛門である。そんな男が1809年(文化6年)2月に数え13歳で火消同心職を継いだ。ところが、15歳の時に歌川豊広に入門して広重という名を与えられた。それから、広重は1832年(天保3年)、嫡子仲次郎が元服したのを機に同心職を譲り、絵師に専念するようになった。つまり、それまで広重は絵師と同心の二足のわらじを履いていたというか、二刀流だったようである。

どうやらこうしたことによって安藤という本名と広重という雅号が一緒になって安藤広重という名が伝わったようである。ただ広重自身は絵の世界で生涯「安藤広重」と自ら名乗ったことはなかったようである。いずれにしろ、広重が武士であったことから、その名が明治・大正・昭和と受けつかがれていき、安藤広重と歌川広重が混在するようになってしまったようである。そして、それを避けるために2017年02月15日の文部科学省の「次期学習指導要領等の改訂案」で雅号である「歌川広重」に統一され、「安藤広重」という名は教科書等から消えていった。

しかしである。なんで安藤広重という名を無くしたのであろうか。安藤広重という名があったからこそ、彼が武士であり浮世絵師であったこともわかるのに・・・。まあこれからは『東海道五十三次』の作者は歌川広重と覚えられるようだが、私からすれば別名も覚えておいてほしい。ただ、葛飾北斎のいくつあるか分からない別名を覚えろとは言わないが・・・。(笑)


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