土曜日, 3月 29, 2008

会津若松と歴史を冒とくするTBS

私の読売新聞嫌いは筋金入りだが(笑)、このニュースを大手メディアのなかで最初に報じた読売新聞はお手柄ものである。といっても、相手がTBS(こちらも嫌いだが)というライバル社ことだからかもしれないが・・・。

その報道全文は下記のようなものである。

福島県会津若松市は28日、東京放送(TBS)系のクイズ番組で戊辰(ぼしん)戦争時の若松城(鶴ヶ城)のイメージを損なう放送があったとして、TBSと番組制作会社に24日付で抗議文を郵送したことを明らかにした。

抗議文によると、番組は2月16日に放送された「歴史王グランプリ2008まさか!の日本史雑学クイズ100連発!」。若松城について「旧幕府軍が城を明け渡したとんでもない理由とは」との出題に対し、「糞尿(ふんにょう)が城にたまり、その不衛生さから」が正解とされ、理由のすべてのように放送されたとしている。

菅家(かんけ)一郎市長は記者会見で、〈1〉他藩からの応援の望みが絶たれた〈2〉1か月に及ぶろう城による傷病兵の増加や物資の枯渇−−など様々な要因が重なった結果と説明。「視聴者や市民らに著しい誤解や不快感を与えた」とし、市民への謝罪と訂正を求めている。

TBS広報部の話「抗議文が届いたかどうかを含め、内容を確認している」

TBS番組に会津若松激怒、鶴ヶ城開城「不衛生だから」?
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080328-OYT1T00388.htm

そして、本日の朝日新聞によれば、会津若松市はこの放送内容を事前に知っていて、TBSもしくは番組制作会社に再三見直しを要求していたが、聞き入れられなかった、と報じている。加えて、放送直後からは「抗議すべきだ」とのメールが市民から殺到。市議会からも毅然(きぜん)とした対応を求める声が出たという。

会津若松市、TBSに抗議 戊辰戦争「糞尿たまり開城」
http://www.asahi.com/culture/update/0328/TKY200803280383.html

残念ながら、私はこの番組を観ていないので、どのような形で放送されたのかは把握できないが、それにしても、もしこれが本当ならば、TBSおよび番組制作会社(番組HPからするとリーライダーす)は謝罪と訂正だけでは済まされない。

なぜならば、TBSおよび番組制作会社の歴史認識の無さ、低俗さは言うに及ばないが、会津若松という観光地に対する配慮もない。意図的であろうがなかろうが、もしこのようなイメージダウンをするような放送したら、アメリカだったら間違いなく訴訟問題が起きるであろう。そして、起きてはほしくはないが、日本では馬鹿なヤツがTBSに糞尿を送りつける者がでるかもしれない。

TBSは早急に会津若松市および市民に謝罪するべきである。

TBS「歴史王グランプリ2008まさか!の日本史雑学クイズ100連発!」
http://www.tbs.co.jp/program/history_20080216.html

水曜日, 3月 26, 2008

アスレチックス vs レッドソックス@東京ドーム

昨晩、東京ドームで行われたメジャーリーグ開幕戦・アスレチックス vs レッドソックスの試合を見てきた。試合結果はご存じの方も多いと思うが、延長10回5−6で我らがアスレチックスはレッドソックスに負けてしまった。世間的には「アスレチックスは健闘して惜敗」という見方であろうが、私にとってはかなり歯がゆい試合でならなかった。

というのも、アスレチックスには記録上ではエラーはついていないが、大きなミスを4つもおかしている。エリスがお手玉をしてダブルプレーをできなかったこと、サードのハナハンが一塁に悪送球したこと、ライトのバックが落球したこと、そして、10回に右中間にヒットをしたブラウンが3塁へ暴走したこと(これは3塁コーチのミスでもある)。このように実に雑なプレーをアスレチックスはしている。これに対して、レッドソックスはセンターのエルズベリーがファインプレーをするなどノーミスで試合を行った。この辺がキャリアと年棒の違いだろうか。(苦笑)

野球は投手が投げて、打者が打つゲームなので、投手が打たれるのは当たり前である。ブラントンにしてもストリートにしても、レッドソックスのパペルボンにしても、これは仕方がない。しかし、松坂は5回で四死球6である。1回と2回は30球も投げている。いくらアスレチックスが選球眼のいいチームだといっても、これではあまりにも酷い。このおかげ試合は序盤からダラダラしてしまい、5回までに2時間も費やし、結局延長10回で4時間近くもかかる点差的には絞まってみえるようだが、実際は非常にダレた試合になってしまった。

球場を9割以上占めたレッドソックスファンおよびにわかファンには「グッド・ゲーム」だったかもしれないが、アスレチックスファンおよび野球通には「ラフ(雑な)・ゲーム」でしかなかった。私と一緒に行った友人も「日本のプロ野球より間延びしているな」であった。

火曜日, 3月 25, 2008

やってきました「ねんきん特別便

いつ届くのだろうか、と手ぐすねひいて待っていた「ねんきん特別便」が、やっと私のところにもやってきました。

私は年金制度には非常に批判的であるが、それでも国民の義務として、これまできっちりではないにしろ(海外に行っていて払っていないことがある)、払えるときには払っている。しかしである。この記録のズサンさには正直あきれ返ってしまった。

私は今日では国民年金であるが、5年間ほど2つの会社でサラリーマンをしていて、厚生年金を払っている。ところが、「ねんきん特別便」の私の記録では、その5年間の厚生年金の記録はスッポリと抜けているのである。予想通りであった。

以前より私は国民年金、厚生年金、共済年金などすべての年金は一元化すべきであると言ってきた。おそらく、私のように会社勤めをしていて、会社を辞めたために厚生年金の記録が書かれていない人が5万といる、いや50万、いや500万といるに違いない。

それにしても、社会保険庁というところは、これまでいったい何をしてきたのだろうか。これが銀行だったり保険会社だったら倒産どころでは済まないはずなのに、社会保険庁はいまだに存在している。民間では倒産および訴訟問題になるのが、社会保険庁は税金をいっぱい使って存在している。おかしな話である。

土曜日, 3月 22, 2008

ジュニア小説を読むのが好きだった

子供の頃からテレビドラマを見るのが好きだった。なかでも青春ドラマや青春群像劇がお気
に入りだった。夏木陽介主演の『青春とはなんだ』(1965年・日テレ)や竜雷太主演の『これが青春だ』(1966年・日テレ)は食い入るように見ていた。また、テレビで放映されていた日活映画の石坂洋次郎原作の『青い山脈』『陽のあたる坂道』『あいつと私』なども好きでたまらなかった。

その影響を受けたためか中学に入ってから石坂洋次郎、石原慎太郎、芹沢光治良といった作家の小説を好んで読むようになった。と同時に、同じクラスの女子がもってくる「小説ジュニア」や「ジュニア文芸」に掲載されている、富島健夫、佐伯千秋、赤松光夫などの甘酸っぱいジュニア小説も好きになってしまった。数学や理科の授業時間は私にとってジュニア小説読書時間になり、時には雑誌を借りて家に持ち帰り、深夜放送を聴きながら読んでいたりした。

ジュニア小説は私がちょうど中学に入る年の直前から開始された。集英社が1966年(昭和41年)3月に「小説ジュニア」がまず創刊された。同じ頃に小学館から後に「ジュニア文芸」と名を改める「別冊女学生の友・春の号」も刊行された。この頃にどうしてジュニア小説というものがスタートしたかは、よく解らないがテレビの青春ドラマの影響は少なからずあったと思うような気がする。

これらの雑誌には森村桂、佐藤愛子、平岩弓枝、津村節子といった名だたる女流作家も書いていたが、富島健夫、川上宗薫、赤松光夫といった後に官能小説を数多く手がけた作家もいた。ジュニア小説と官能小説つまりエロ小説は紙一重だったのである。だから、私は好んで読んでいたのだろう。(笑)

「ジュニア文芸」は1971年(昭和46年)8月号までの5年間と短い発行期間だったが、「小説ジュニア」は1982年(昭和57年)6月号まで発売され、集英社はその間に1976年(昭和51年)コバルト文庫シリーズを発刊して、新井素子、氷室冴子、桐野夏生、唯川恵など数多くの人気作家が生まれた。

現在はジュニア小説でなく携帯小説の時代になったが、今の携帯小説も少し甘酸っぱい香りがするのだろうか

木曜日, 3月 20, 2008

日銀総裁問題・諸悪の根源は財務省

御存じのように日銀総裁問題で、民主党は財務省出身の武藤敏郎・日銀副総裁(元財務事務次官)および田波耕治・国際協力銀行総裁(元財務事務次官)の日銀総裁への起用する人事案に参議院で反対・不同意をして、日銀総裁の席が初めて空席となった。

このことによって、福田首相の人事能力の無さが露呈、加えて、財務官僚の日銀総裁というポストに対する並々ならぬ執念も露呈した。当初、新聞は民主党の不同意に対して批判をしていたが、徐々に今回の舞台裏を書きはじめ、福田首相の財務省依存体質と財務省の年功序列体質が明らかになってきた。

福田首相や自民党幹部は「財務省出身ならば、民主党はダメなのか」と言っているが、民主党は実はそうではなかったらしい。民主党の鳩山幹事長は非公式な場で、黒田東彦(アジア開発銀行総裁)や渡辺博史(国際金融情報センター顧問)などを示唆していたようであった。しかし、財務省がこれに異議を唱えたようだ。というのも、黒田を日銀総裁にすると、アジア開発銀行総裁のポストを他国に取られることを財務省は嫌がり、また渡辺を据えると現在の財務省事務次官・津田広喜と同期入省になり、年功序列の均衡がとれなくなってしまうからであるそうだ。

日銀総裁のポストというと、これまで日銀出身者と財務省(旧・大蔵省)出身者が交互に務めてきていた。財務省にとっては最高の天下り先であり、このポストを容易に明け渡すことができない。そのために、今回の騒動で財務省は日銀総裁という重責よりも、自分たちのメンツと序列を守るために、福田首相にゴリ押しともいうべき、武藤および田波という財務事務次官経験者を押し付け、福田首相もそれに乗っかってしまったのが、どうやら真相のようである。

今後、日銀総裁は総裁代行という形になり、日銀は運営されていくのだろうが、一刻も早く福田首相は諸悪の根源である財務省のことを気にすることなく、指導力のある新しい日銀総裁を選んでほしい。そして、できればその方には日本経済を強くするべく金利の引き上げを行ってもらいたい。

水曜日, 3月 19, 2008

18歳は成人か否か

先月、自民党の憲法審議会が成人年齢や公職選挙法の選挙権年齢などの引き下げの議論を開始した。これは昨年5月に成立した国民投票法が、投票年齢を18歳以上としたことによる。ただし、衆参両院に設置される予定の憲法審査会は、民主党をはじめとした野党が反対しているので、なかなか開くことができない。そのために、自民党はそれに先走る形で党内論議を先行させているのである。

それでは、なぜ自民党がここまで成人年齢や選挙権年齢を引き下げしようとしているのだろうか。彼らの建前は欧米諸国では18歳以上が成人と認めれていて、それが世界の趨勢(すうせい)だ、ということらしい。さて、そうだろうか。自民党が大好きなアメリカでは18歳の州もあるが、カリフォルニアのように21歳以上というところもある。お隣の韓国や私の好きなタイは確か20歳であったはずだし、中国にいたっては成人年齢はあっても選挙権はないので、比較対象にすらならない。

自民党が18歳にこだわる理由は、今日の社会でもっとも無党派層にして、現状体制のなかでぬるま湯のように過ごしている若者層から支持をとりつけて、政権を維持したいという意図がある。それにしても、若者層が自民党を支持しているという現状そのものが嘆かわしい・・・。

時事通信社が今月16日に発表した世論調査によると、成人年齢引き下げに「反対」と答えた人は過半数の53.6%、「賛成」は40.8%だった。「反対」とした人の理由として「精神的に未熟だから」が66.5%を占め、以下「現状を変える必要はないから」14.0%、「国政への参加は尚早だから」11.6%という順だった。一方、「賛成」の理由は「早くから大人の自覚を持たせるべきだから」が45.9%で、これに「凶悪犯罪は若年者も大人と同様に罰せられるべきだから」31.7%、「国政には若年者の意見も反映されるべきだから」11.7%と続いた。

私の結論は、10数年前までは「賛成」だったが、現在は絶対に「反対」である。というのも、この成人年齢引き下げが完全に自民党の政治的道具に使われていることと、国が税金や年金の増収を目論んでいる魂胆があるからだ。そしてなによりも、今日の18歳の未熟さを考えると、とてもではないが賛成することはできない。

金曜日, 3月 14, 2008

出石の永楽館が今夏柿おとし

兵庫県出石町(現在は豊岡市出石)を訪れたのは2000年春のことだったが、出石城の隅櫓を見事な桜が彩っていた。出石は江戸時代に五万八千石の城下町として栄え、いまでも悠久の流れと情緒あふれる町並みが並び「但馬の小京都」と言われている。

出石には永楽館という近畿地方に唯一残る芝居小屋がある。私が訪れたときは見た目は廃屋同然であったが、回り舞台、花道、奈落など昔ながらの舞台機能が全て残っていて、回り舞台のための奈落の木々もまだまだしっかりしていて、私は是非とも復元してほしいと思った。

その永楽館が一昨年より復旧工事が行われていて、今年の夏には終了して、8月に片岡愛之助主演による「永楽館柿落大歌舞伎」と題して「三番叟(さんばそう)」などが演じられる予定になっているという。

永楽館は1901年(明治34年)に建てられ、当初は歌舞伎を主体に剣劇、新派劇などの芝居興行が行われた。大正時代に入ると活動写真も上映されるようになり、昭和初期にはレビュー公演も行われ、地元の人々の娯楽の場として親しまれていた。しかしながら、テレビの普及や人口流出で観客が減少して、 1963年頃に閉じられたという。永楽館という名は出石城主・仙石氏の家紋「永楽銭」にちなんで名付けられた。

現在、日本には昔ながらの伝統的な木造建築による芝居小屋は20余り残っている。ただ、実際に劇場として使用されているところは、秋田県小坂町の康楽館、愛媛県内子町の内子座、福岡県飯塚市の嘉穂劇場、熊本県山鹿市の八千代座などその数は10とないだろう。永楽館が復元されると、年間100万人以上が訪れるという観光地・出石にとって、新たな観光名所が誕生する上、芝居興行のたびに数多くの人が訪れるに違いない。そして、現代劇、大衆演劇、落語、能&狂言などに使われて、新たなる文化基盤として発展してもらいたいと願うばかりである。

写真上:道に面した太鼓櫓からは興行があるときには太鼓を鳴らした
  下:廃屋同然だった2000年当時の内部

出石の永楽館
http://www.city.toyooka.lg.jp/eirakukan/index.html

近畿最古の芝居小屋 「復原」大詰めへ(神戸新聞)
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0000837831.shtml

火曜日, 3月 11, 2008

目黒の名物とんかつ「とんき」が値上げ

目黒駅周辺でもっとも有名な飲食店にして、日本でも指折り有名なとんかつ屋「とんき」。その「とんき」が3月1日から値上げした。これまで1650円だった定食が1800円と150円も上がってしまった。加えて、ビールもこれまでは大瓶650円だったのが中瓶600円に変更、つまり値上げされた。理由はおそらく相次ぐ食用油やビールの値上げからであろう。

「とんき」の創業は確か私が生まれた頃のはずだから、50年以上になり老舗である。お店の造りは、1階はコの字型の白木のカウンターに囲まれた広いオープンキッチンで、カウンターには40人以上のお客が座れることができる。ただし、午後5時から夜9時ぐらいまでは常に満席という超人気の繁昌している店だ。

私が初めて「とんき」へ行ったのは小学生の頃だが、月に1回ぐらい通うようになったのは30歳過ぎてからである。ここはラストオーダーが10時45分と他店に比べて遅く、その時間帯に食べても全く手抜きのない味とサービスが気持ちいいからである。

「とんき」のとんかつは、普通のとんかつとは造りが違う。一般的なとんかつは衣と肉が一体化しているが、ここのとんかつは衣に入っている卵の少し量が多く、時間をかけてしっかり揚げている。そのために、衣と肉は結構分離していて、サクサク感やジューシィ感を求める人には物足りないかもしれない。しかし、そのような味のお店はどこにでもあるので、当たり前の話だが「とんき」ならではの味はここでしか味わえない。

ここの店内はとても油を使っているお店とは思えないほど、店内は常にピカピカに磨かれていてる。そして、従業員のキビキビした動きとサービスは、まるでキッチンショーを見ているような動きで、ここの仕事ぶりを研修にくる同業者はあとを断たない。

値上げは正直痛いが、あの味とサービスは捨てがたいので、今後も食べにいくであろう。目黒はサンマが名物だが、とんかつも名物である。目黒へお立ちよりの際は、一度は訪れてみてください。

営業時間は午後4時から10時45分(ラストオーダー)まで。
毎週火曜日および第3月曜日は休み。
ご飯およびキャベツのお代わりは自由。

http://gourmet.yahoo.co.jp/0000831349/M0013001964/

月曜日, 3月 10, 2008

日本人のオーストラリア観光は激減する

南極海を航行中の日本の調査捕鯨船団に対して、シー・シェパードが再三妨害している問題だが、このことによって残念ながら日本人のオーストラリアに対するイメージは相当に悪化している。

すでに数多くのブログにシー・シェパードやオーストラリアに対して「シー・テロリスト」「エコ・テロリスト」「テロ支援国家」「オージー・ビーフ不買運動」と言った過激な言葉が氾濫している。

私はオーストラリアに行ったことがないが、そのイメージは昔は白豪主義にして、現在はリッチな資源大国である。観光的には海は素晴らしいだろうが、それ以上に見るべき文化遺産などがないので私は訪れる気はほとんどない。

そのオーストラリアには日本人は過去に年間82万人が訪れたことがあるが、その数は毎年減り続けていて、2016年に56万人程度にまで減少すると、2月22日の下記のAAP通信ニュースは伝えている。

しかし、その後に起きている調査捕鯨船団に対する妨害によって、オーストラリアへ向う日本人観光客は激減するに違いないだろう。お互いの国にとって残念なことであり、不幸なことである。

オーストラリアへの観光客数が減少
http://news.jams.tv/jlog/view/id-3677

土曜日, 3月 08, 2008

「助言の達人」順ちゃんの名言集

朝の連続テレビ小説「ちりとてちん」(NHK)が面白いとは、これまでにも書いているが、なかでも、主人公・喜代美(貫地谷しほり)の頼れる親友、順ちゃんこと順子(宮嶋麻衣)のアドバイスにはほとほと感心させられる。

そこで、これまでの彼女の名言を調べてみた。

※高校卒業後の進路に迷っている喜代美に対して。
順ちゃんの名言
「ほんまにええの? 先生に薦められたいうだけで、地元の短大行って。地元の農協とか信用金庫に勤めて。地元の人と結婚して。子ども産んで」

※学園祭で結局スポットライト係になって落ち込んでいた喜代美に対して。
順ちゃんの名言
「学園祭は終わりやけど…。この学校では。この町ではずっとエーコの脇役やったかもしれへん。けど、あんたの人生の主役はあんたや。どーんと人生のど真ん中、歩いていったらええねん。主役になるいうのは、そういうことと違うんかな」

※喜代美が同姓同名の子がクラスに転校してきて、あだ名がビー子になったことについて。
順ちゃんの名言
「あんたが和田喜代美なんも。この町に住むことになったんも。おんなじクラスに和田清海がおんなるんも。その和田清海がみんなのアイドルなんも。全部、隕石とおんなじや。天から降ってきた災い。天災や。そう思てあきらめなれ」

※順ちゃんが友春と結婚するときに。
順ちゃんの名言
「一生懸命なアホほどやっかいなもんはない。でもな、一生懸命なアホほど、愛おしいもんはあらへん。私はそういう人間を好きになるみたいやな」

※魚屋食堂でお父ちゃんに良いところ持っていかれたと落ち込む喜代美に対して。
「スポットライトにあたっているだけが主人公じゃない。人にライトをあてるのは素敵な仕事や」

※エー子とのわだかまりが解消できず、悩んでいる喜代美に対して。
順ちゃんの名言
「人を傷つけているのはお互い様。だらだら生きていても、一生懸命生きていても、人と関わって生きている限り、誰かを傷つけているものだ」

ドラマはあと3週間続くが、まだまだ順ちゃんの名言が登場するに違いない。しかし、これだけ的確な助言をできる親友をもっている喜代美は幸せ者である。残念なことに私の周りにこんな「助言の達人」はいない。まあ、草々いることはないだろうが・・・。(笑)

木曜日, 3月 06, 2008

沖縄旅行3日目(平和の礎へ墓参り)

3日目はゴルフ組も一緒に観光。2日間ゴルフとお酒漬けだったせいか、ゴルフ組はみなさん完全にお疲れモード。それでも、琉球王朝の歴史や伝統文化を体験できるテーマパーク「おきなわワールド」へ。ここには沖縄を代表する鍾乳洞・玉泉洞をはじめ、ハブとマングースのショーなどもあるハブ博物館、テント・ステージでのエイサーショーなどが楽しめ、沖縄の特有の赤瓦の古民家を再現した町並みでガラスや陶器などの伝統工芸を体験できる。

私は以前にもここに来たことがあるが、そのときは時間があまりなく、エイサーショーを見ただけで玉泉洞とハブ博物館を見ることができなかった。それゆえに、今回はその2本に的を絞って観光。玉泉洞は全長5kmにもおよぶ大鍾乳洞だが、そのうちの890mを公開しているが、これが結構長い。早足での見学だったのもかかわらず1時間近く費やしてしまった。その後は、ハブとマングースのたわいもないショーを見る。

昼食後、最後に訪れた沖縄平和祈念資料館内にある「平和の礎(いしじ)」は、私にとってお墓参りの場所でもあった。

平和の礎は1995年6月に太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して建立された。世界の恒久平和を願い、沖縄戦で亡くなった全ての人々(国籍、軍人、民間人の区別なく)240,609人の名(2007年6月23日時点)が屏風型の花崗岩に刻まれている。そのなかに私の伯父の名前もある。

私の伯父・小松三郎は東大医学部を卒業後、東大病院に勤務。しかし、その後軍医として徴用されて、南方戦線を転戦して、最後に沖縄に配属された。

よくある話だが、終戦後父の実家に、伯父に手術をうけて帰還した兵士が「軍医殿はおりますか。お礼を申しに参りました」と訪れたという。彼の話によれば、伯父は沖縄終戦の日である1945年6月23日の前日まで生存していた。彼が最後に伯父を目撃した場所は、平和の礎がある摩文仁の丘近くの壕で、伯父はそこで手術を行っていたという。しかし、伯父は結局本土に帰ってくることはなかった。そして、いつ何処で亡くなったのかも解らない。


もし、伯父が生還していたら、私の人生は少し変わっていたかもしれない。従兄弟の数は増えていただろうし、私の医学に関する興味はもう少し助長されていただろう。

写真上:ハブとマングースの水泳大会
  下:平和の礎に刻まれている伯父の名

沖縄平和祈念資料館
http://www.peace-museum.pref.okinawa.jp/

土曜日, 3月 01, 2008

沖縄旅行2日目(識名園・首里城観光)

前日は午前1時まで飲んでいた。ゴルフ組はそれでも朝7時にはホテルを出て、ゴルフ場へと出向いていった。なんたる体力と気力であろうか。私にはとてもできない。私がゴルフをしない理由のひとつである。観光組は午前10時出発なので、ほどよく眠る時間はあった。

この日の観光はまずは識名園(俗にしちなぬうどぅん=識名の御殿)へと向った。ここは琉球王家の別邸で、国王一族の保養や海外からの使節団の接待場所として使われた。特に中国からの使者(冊封使)がきたときはここを必ず利用した。というのも、ここには展望台があるが、海を臨むめない造りとなっている。これは琉球が広い国土の国であることを見せるためだといわれている。また、ここは時には国王が側室などとの密会の場所としても使われていたらしい。

識名園は第二次世界大戦でほとんどの建造物が破壊されたため、現在の建物はすべて復元されたものであるが、。2000年に国の特別名勝に指定され、世界遺産にも登録された。それにしても、ここを訪れる観光客は意外に少ない。それだけ、じっくりと庭園の良さなどを味わうことができた。

昼食はまたもやそば。今度は那覇周辺に3店ある鶴小(ちるぐゎー)へ行く。ここは基本的にそばがメインだが、メニューには定食などもあり盛りだくさんで、沖縄版ファミレスといった感じのお店である。私は豚足の入った「てびちそば」をいただいた。味は前日に食べた新山そばに軍配があがるが、それでもボリュームたっぷりで満足。料金はソーキそぼも「てびちそば」も630円だった。

食事後は首里城へ。私は以前にも行ったことがあるが、他の人たちは初めてなので同行することに。首里城観光後は女性が2人いることもあり、国際通りおよび平和通りでショッピング。そして、夜はゴルフ組と合流して、那覇市内にある沖縄民謡バーで食事と宴会に。長い長い夜が続いていく・・・。

写真上:識名園
  下:民謡バー