土曜日, 9月 22, 2007

タケノコが名産品だった碑文谷


碑文谷八幡宮のお祭りもあったので、ちょっと私が住んでいる目黒区碑文谷の歴史を調べてみた。意外や意外、この碑文谷という土地の歴史はまだまだ解らないことが多く結構面白い。

碑文谷という地名の由来は諸説あるが、碑文谷八幡宮に碑文の書かれた「碑文石」があり、「碑文石のある里(谷)」にちなんで碑文谷という地名が生まれたというのが、もっとも有力とされている。

碑文谷という地名がいつから使われはじめたかは定かではない。碑文谷八幡宮の創建は鎌倉時代とも室町時代とも伝えられるだけで、正確な記録はない。ただ、江戸時代の文献には碑文谷という地名は記されていて、農家が散在していたという。

1868年(明治元年)、明治新政府武蔵県事令で、碑文谷村は現在の目黒区の区域内に入る三田村、上目黒村、中目黒村、下目黒村、衾(ふすま)村と共には武蔵県に属するとされた。しかし、翌年の1869年(明治2年)には三田村は東京府に、その他の5村は品川県に属することになり、碑文谷村も品川県に帰属することになった。ところが、明治4年の廃藩置県によって品川県は廃止され、東京府荏原郡に編入された。

明治に入ってから碑文谷村および衾村ではタケノコ栽培が活発になり、大正時代にその最盛期を迎えたという。「目黒のタケノコ」は太く、柔らかく、おいしいと言われ、名産品となった。多くの人が目黒のタケノコは自然栽培のように思っているが、農家が手間ひまをかけて作った重要な農産物だった。私が子供の頃にはあちこちに竹林が広がっていたが、今は「すずめのお宿公園」にその面影を残しているだけとなってしまった。

1889年(明治22年)、東京は市制施行となり、荏原郡三田村、上目黒村、中目黒村、下目黒村は目黒村に、碑文谷村と衾村は碑衾村になった。ここで現在の目黒区の大まかな骨格ができあがったといってもいいだろう。その後、荏原郡目黒村は荏原郡目黒町になり、荏原郡碑衾村は荏原郡碑衾町になり、1932年(昭和7年)目黒町と碑衾町が合併して東京市目黒区となった。

ただ、この目黒区になる前に碑衾町は「朝日町」と改称する予定があったという。これは「碑衾(ひぶすま)」という名の読み間違えや書き間違えがあまりに多いため、公募の結果で決定したようだ。ところが、目黒村との合併話と共に立ち消えとなった。今となってはなんと良かったことか。目黒区朝日町なんて味も素っ気もない名前を使うことがなくて、非常に嬉しい限りだ。ちなみに、先日書いたお祭りの碑文谷八幡は旧碑文谷村の鎮守様で、旧衾村の鎮守様は宮前にある氷川神社になる。

碑衾町地図の説明:
東横線学芸大学駅は「碑文谷」、都立大学駅は「柿の木坂」だった。
碑衾町役場は現在の碑文谷警察署から少しダイエー寄りあったと思われます。
碑文谷地区と衾地区の境を現在は環状7号線が走っています。

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