清水の次郎長といえば、戦後の映画やドラマの花形であった。その原作は村上元三の連作時代小説「次郎長三国志」。だが、明治時代には初代玉川勝太郎が次郎長ものを演じていて、それを講釈師松廼家京伝(伊東潮魚)が脚色して三代目神田伯山の講談「名も高き富士の山本」が出来上がり、明治末期から大正にかけて「次郎長伯山」と人気を博した。それが昭和に入ると、二代目広沢虎造の浪曲「清水次郎長伝」を作り上げた。つまり、村上元三の小説はこうした講談、浪曲などを脚色して書かれた半ノンフィクション小説と言える。
しかしながら、その清水の次郎長を題材にした映画やドラマは昨今ではほとんど制作されなくなってしまった。連続ものドラマでは2006年6月から8月にかけて山本一力の「背負い富士」を原作としたNHK木曜時代劇「次郎長 背負い富士」(主演:中村雅俊)、単発スペシャルものでは2010年1月のテレビ東京「ジロチョー~清水の次郎長維新伝~」(主演:中村雅俊)を最後に制作されていない。つまり、もう14年以上も中村雅俊に代わる新しい次郎長を目にしていないのである。残念だ。
さて、今回訪れた次郎長の生家(登録有形文化財)。清水のその名も次郎長通り商店街にある。建物は江戸末期の建築といわれ、次郎長が1820年(文政3年)生まれなので、おそらく200年以上は経っている。間口は2間半と狭まいが、鰻の寝床ではないが奥行きが5間半の平屋と、中庭を挟んで奥行四間二尺の二階建てが繋がっている。江戸時代の典型的な町屋建築といわれている。
清水の次郎長こと山本長五郎はこの生家である商家の高木三右衛門の次男として生まれるが、母親の弟で近くに住んでいた米屋・甲田屋を営んでいた山本次郎八の養子に出された。そのことによって次郎八のところの長五郎ということで「次郎長」と呼ばれるようになった。
なお、この生家の近くには次郎長、お蝶、大政、小政の墓がある梅蔭禅寺、次郎長が経営していた船宿「末廣」(改装中で見学できず)、次郎長が手厚く埋葬した咸臨丸乗組員の墓がある。今回の旅で時間的制約でこれらを訪れることはできなかったが、清水は意外にバスの便がいいことが分かったので、近いうちに訪れてみたいと思う。
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