長沢鼎(かなえ)という名を御存じであろうか。彼は1852年(嘉永5年)に薩摩藩天文方という学者一族の家に生まれた。本名を磯永彦助という。幼少の頃より英明だった彼は藩校である開成所で学び、1865年(元治2年・慶応元年)に弱冠13歳で藩費英国留学生としてイギリスに向う。
この藩費英国留学生は15名おり、そのなかから森有礼(後の文部卿)、寺島宗則(後の外務卿)、鮫島尚信(後の駐仏公使)、吉田清成(後の駐米公使)、松村淳蔵(後の海軍中将)、畠山義成(後の東京開成学校初代校長)といった明治新政府で活躍する人物が何人も生まれた。そんななかで、長沢鼎だけは海外で数奇な人生を送った。
イギリスに渡った後、長沢は他の留学生と分かれ、単身でスコットランド・アバディーンにあるトーマス・グラバーの実家から中学校に通った。しかし、それから2年後に留学生らはアメリカ人宗教家トーマス・レーク・ハリスと会い、長沢もその教えに共感して、1867年に森、鮫島、吉田、松村、畠山と共にアメリカに渡った。
渡米後、長沢らはニューヨーク州ブロクトンにあるハリスの指導する教団コロニーで、ワイン醸造などの仕事をしながら自給自足の集団農場生活を送る。翌年、明治維新の知らせを聞くと森らは帰国したが、長沢だけがハリスのたっての希望でコロニーに残った。それから、7年後、コロニーはカリフォルニア州サンタ・ローザ(Santa Rosa)近郊に移住。ハリスはその地をファウンテン・グローブと名付けた。この頃になると、長沢はワイン作りに没頭するようになり、ファウンテン・グローブ・ワイナリーは数多くの賞を受賞して、その名は次第に有名になっていった。
1892年、長沢が40歳になったとき、ハリスがニューヨークに戻ったために、ワイナリーは長沢の手に託されることになった。その後、彼は人種差別や排日運動が吹き荒れるなかで、次々と美味しいワインを生産して、地元白人たちから「プリンス」「バロン」などと呼ばれ、一目置かれる存在となった。そして、彼は日系社会に対する貢献も忘れることなく、カリフォルニアの日系社会で「ワイン・キング長沢」の名を知らぬ者はいなかったという。
1934年(昭和9年)、長沢は生涯独身のまま82年の波乱万丈な人生を終えた。
1983年に日本を訪れたレーガン元大統領は国会演説のなかで「侍から実業家になった長沢鼎は、日米両国の友好の歴史の中で特筆すべきことである」と彼を称賛した。
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