木曜日, 12月 30, 2010

2010年株を上げた人、下げた人

■株を上げた人
1位 チリ政府&国民
2位 鈴木章&根岸英一(化学者)
3位 「はやぶさ」に関わった人々(科学者)
4位 本田圭祐(サッカー選手)
5位 香川真司(サッカー選手)
6位 白鵬(力士)
7位 内田裕也(ロックンローラー)
8位 西村徳文(プロ野球監督)
9位 池上彰(ジャーナリスト)
10位 さかなクン(魚博士)

■株を下げた人
1位 気象庁の人々
2位 山路徹(戦場ジャーナリスト)
3位 市川海老蔵(俳優)
4位 大阪地検特捜部(検察)
5位 麻木久仁子(タレント)
6位 小沢一郎&小沢ガールズ(政治家)
7位 日本相撲協会の人々
8位 大桃美代子(タレント)
9位 鳩山由起夫&邦夫兄弟(衆議院議員)
10位 菅直人(総理大臣)

2010年もっとも株を上げたのは、チリ政府ならびに国民だろう。チリといえば銅とワインの国という知識しかなかったが、彼らがいかに鉱業に対してプライドをもっているのかがよく解った。「Chi - Chi - Chi, Le - Le - Le, Los mineros de Chile !」は久しぶりに聞いた感動的な叫びだった。

株を下げた人の1位は迷った。戦場ジャーナリストの名がすたる男にするか、梨園の懲りない御曹司にするか、それとも特捜部の名を失墜させた検察にするか相当迷ったが、結局は猛暑をまったく予報できなかった気象庁の人々とした。科学的予報がこれだけ進化したのに、長期予報はいまだに当てることができない気象庁。喝だぁ!

水曜日, 12月 29, 2010

初夢・2010年無責任予想」を振り返る

今年の冒頭に下記のような「初夢・2010年無責任予想」を行った。そして、その結果はどうであったかを検証してみたい。
http://k21komatsu.blogspot.com/2010/01/2010.html

バンクーバー・オリンピックで日本チームが予想外の大健闘
【当たり】金メダルは1個も取れなかったものの大健闘です。ほとんどの競技で日本人選手がメダル争いに参加できるようになったことは進歩です。

普天間基地問題で社民党が連立政権より離脱
【当たり】沖縄の基地問題はデリケートなことですが、総選挙のときから鳩山(当時は代表)が言った「国外、すくなくとも県内」という発言は無理があると思っていました。結局、社民党に恩を売って墓穴を掘った形でした。

W杯日本代表1勝もできず予選突破ならず
【大ハズレ】これは逆立ちものの大ハズレです。ただ、私としては大嫌いな中田英以来のパスサッカーを壊滅させてくれたのがとても嬉しかったです。

東京株式市場夏場に急騰
【ハズレ】政権の不安定が最大の要因ですが、日本人および外国人投資家のチキンさにもびっくりです。

夏の参議院選挙で民主党は過半数の60議席確保ならず
【当たり】菅直人が参議院選挙前に消費税発言したために民主党は敗北しましたが、ただ私は彼の発言を評価します。

松井秀喜、エンジェルスで大活躍
【ハズレ】ハズレたおかげで棚から牡丹餅ではありませんが、アスレチックスへの入団。来年1年間はアスレチックスの中継が増えるので嬉しい限りです。

ノーベル賞で2〜3人の日本人が受賞
【当たり】今年は2人だけでしたが、来年以降も毎年日本人の受賞者が続いても不思議ではないと思います。

まさかまさかの横浜ベイスタースが活躍も、結局は巨人が優勝
【ハズレ】ベイスターズはまったくいいところなし。来年もボロボロでしょう。最後は中日が戦力を整えましたが、阪神があそこまで頑張るとは。それにしても、巨人も、そして最終的には中日も情けなかった。

石川遼、アメリカでホールインワン達成
【ある程度当たり】アメリカではホールインワンがありませんでしたが、日本で達成したので「ある程度当たり」とさせてもらいます。

大相撲朝青龍電撃引退
【大当たり】あっという間に引退して逆に拍子抜けしました。そのおかげで鬼のいない白鵬が連勝街道まっしぐらになりました。

ということで、1【大当たり】、4【当たり】、1【ある程度当たり】、3【ハズレ】、1【大ハズレ】という結果に終わりました。来年も今年同様に無責任予想を行いたいと思います。

月曜日, 12月 27, 2010

参議院選挙制度改革にオブジェクション!

先日(22日)参議院の選挙制度改革について西岡武夫参院議長が全国を比例9ブロックにする改革案を参議院各会派に提示した。その内容は都道府県単位の選挙区を廃止して、全国を比例9ブロックにするというもので、一票の格差を1.16倍以下まで抑えることができるというものである。

しかしなが、この提案は定数を現状の242のままにして「定数削減と1票の格差の両立は至難の業だ」と居直って、自分たちの保身を最優先にしている。私は1票の格差も大事だと思うが、それ以上に参議院選挙制度改革で必要なことは下記の3つだと思っている。

・無所属議員の尊重(法の下での平等)
・定数削減(国庫負担の軽減)
・地域性の重視(地方の声の尊重)

そもそも参議院というのは「良識の府」といわれる存在であり、衆議院に対するチェック機関でもあり、政党の人間ばかりが優位な選挙制度になることがおかしい。今回の西岡案では「無所属の個人の立候補については認めるかどうかは今後検討する」などとしていて、まったく参議院の理念を葬り去っている。

定数は現行の242議席から200議席に減らすことが絶対条件である。自分の身を削らずにしての改革など国民は納得しない。「定数削減と1票の格差の両立は至難の業だ」と述べて、格差是正を優先する考えを示したが、先にも述べたがこれは権力者たちの保身以外の何ものでもない。今ここで定数を削減しなければ、いつ定数を削減するというのだろうか。定数削減のない選挙制度改革など絶対に認められない。

参議院はやはり地域性を重要するべきである。全国を9ブロック(北海道、東北、北関東信越、南関東、東京、関西、中国四国、九州沖縄)と分けるのだが、ただ、このブロック割りはあまりにも地域性を無視している。中国と四国を一緒にするなどは信じられない。それでなくとも、選挙区が広いと選挙にお金がかかりすぎることになり、違った問題の発生源になる。また、広域選挙では組織をもたない無所属候補には圧倒的な不利でもある。

そこで、私は下記のように地域性を重視した15ブロック案がいいのではないかと考える。定数は200にして有権者数で偶数分けして、もっとも1票の格差がないようにすればいい。こうすれば、1票の格差は西岡案の1.16倍よりは高まるであろうが、無所属議員の尊重、定数削減、地域性の重視の目的がすべて整い、「良識の府」としての参議院が再度生まれる可能性があるのではないだろうか。一方で、衆議院は地域性などに関係なく徹底的に1票の格差をなくしてもらいたい。

◆西岡案による9ブロック案の区分け◆
<北海道>北海道
<東北>青森、岩手、宮城、秋田、山形、福島
<北関東信越>茨城、栃木、群馬、新潟、長野
<南関東>埼玉、千葉、神奈川、山梨
<東京>東京
<中部>富山、石川、岐阜、静岡、愛知、三重
<関西>福井、滋賀、京都、大阪、兵庫、奈良、和歌山
<中国・四国>鳥取、島根、岡山、広島、山口、徳島、香川、愛媛、高知
<九州・沖縄>福岡、佐賀、長崎、熊本、大分、宮崎、鹿児島、沖縄

◆私が考えた15ブロック案の区分け◆
<北海道>北海道
<北東北>青森、秋田、岩手
<南東北>宮城、山形、福島
<北関東>茨城、栃木、群馬
<南関東>埼玉、千葉、神奈川
<東京>東京
<甲信越>山梨、新潟、長野
<北陸>富山、石川、福井
<東海>岐阜、静岡、愛知、三重
<北関西>滋賀、京都、兵庫
<南関西>大阪、奈良、和歌山
<中国>鳥取、島根、岡山、広島、山口
<四国>徳島、香川、愛媛、高知
<北九州>福岡、佐賀、長崎、大分
<南九州・沖縄>熊本、宮崎、鹿児島、沖縄

金曜日, 12月 24, 2010

松井秀喜とアスレチックス

元ニューヨーク・ヤンキース、前ロサンゼルス・エンゼルスの松井秀喜がオークランド・アスレチックスに入団した。私は大のアスレチックス・ファンだが、この入団が松井にとって、そしてアスレチックスにとって良いのか悪いのか正直解らない。

アスレチックスはワールドシリーズ9回優勝の名門チーム。松井がメジャーリーグに憧れをいだくようになったキッカケの球団とも言われている。しかしながら、果たして松井がオークランドにフィットする選手なのかは疑わざるをえない。

というのも、本拠地であるオークランド・コロシアムはメジャーリーグで一番ファール・エリアが広い球場であり、また、海近くの低地にあり、夜は結構寒くなるなど、メジャーでもホームランが出にくい球場として知られている。また、変形のすり鉢型の球場のために、風にのってボールが飛ぶということもほとんんどない。このために投手にとっては俄然有利な球場であり、そのおかげもあってかアスレチックスは毎年いい投手を輩出することができている。いわば、投手育成球場のようなところでもある。

ここ数年のアスレチックスのDHといえば、2006年はフランク・トーマス、2007年はマイク・ピアッツァ、2008年はマイク・スウィーニーと、「昔の名前で出ています」クラスの大物選手を取っ替え引っ替え起用した。2009年と2010年は年棒の安いジャック・カストにしたが、再び有名選手である松井となった。

松井の契約期間は1年だが、仮に松井が2011年のシーズンに打率3割、本塁打25本、打点90と活躍して、アスレチックスを久しぶりの地区優勝に導いたとしよう。こうなると、松井の年棒は高騰してしまい、来年はアスレチックスにいることができなくなってしまう。もちろん、不甲斐ない成績に終われば、即刻お払い箱であることはいうまでもない。いずれにしろ、松井は1年だけの在籍となりそうである。

松井がアスレチックスに入団したことによって、NHK-BSなどでアスレチックスの試合中継が増えることは間違いない。このことは私のようなアスレチックス・ファンにとっては嬉しい限りである。ただ、1年限りかと思うと残念でもある。

月曜日, 12月 20, 2010

映画『武士の家計簿』を観る

この映画を製作する発端は「金沢を舞台にした映画を作ってもらいたい」という地域起こしの依頼だった。ここ数年、地方都市を舞台にした映画が多い。私が好きな藤沢周平原作の映画はその舞台がすべて海坂藩(庄内藩)であり、そのおかげもあって鶴岡や酒田は観光客が増加している。また、吉村昭原作の『桜田門外ノ変』は水戸藩の地元である水戸市などの出資と協力で作られた映画である。

で、『武士の家計簿』である。もちろん舞台は金沢である。主人公は加賀藩の御算用者(会計担当係)の猪山家。第七代猪山信之(中村雅俊)は江戸の加賀藩上屋敷の赤門(東大赤門)を安く作ったことが自慢の下級武士。その息子・直之(堺雅人)はソロバン馬鹿と言われるほどのクソまじめな男。そして、その息子・成之(伊藤祐輝)は明治維新後に海軍主計大監まで出世する。

しかしながら、この映画は単なる地域起こしの映画ではない。また、単なる時代劇ではない。竹刀による殺陣こそあれど、刀による切り合いはない。それでいて、時に滑稽な場面はあるものの、緊張感に満ちている。そして、キャスティングがいい。主演の堺雅人と仲間由紀恵は的を射ているうえ、両親を演じる中村雅俊と松坂慶子、おばばさまの草笛光子、義父の西村雅彦など絶妙のキャスティングである。

森田芳光の演出は家族やその絆を淡々と描いているのは評価できるのだが、子供を描くときに難点がある。「鯛じゃ、鯛じゃ」というセリフはかなり突発的に出てきたし、銭を犀川に戻すシーンにも無理を感じる。子供の無邪気さを描くのも大事かもしれないが、残念ながら映画の流れに沿っている演出とは思えない。

この映画の最大の功績は、やはりなんといっても久しぶりに「チャンバラのない時代劇」を作り上げたことであろう。この成功は新たなる時代劇の鉱脈を探し当てたといっても過言ではない。時代劇といえばチャンバラ、という固定観念を完全に崩したのである。今後はこの映画の主人公であるソロバン侍のように、いろいろな役職の侍を主人公にした映画が作られる可能性がある。新たなる時代劇の幕開けを観た思いでもある。

『武士の家計簿』
http://www.bushikake.jp/index.php

土曜日, 12月 18, 2010

年賀状の起源と前島密

「年賀状って、いったい誰が始めたのかしらね。まったく面倒なことをしてくれるは」と、年賀状を書きながら母親がブツブツ言うので、私が「前島密が始めたんじゃないの」と答えると、「ああ、そういう人いたね」と。

というわけで、いったい年賀状は誰が始めたのかを調べてみると、前島密という答えはさほど遠かれ近かかれずの答えのようであった。

日本に郵便制度が出来たのは1871年(明治4年)4月。創始者の1人は前島密である。そして、1873年(明治6年)に郵便はがきが発行されると、翌年から中世よりあった武家社会などの年末年始の挨拶を簡素かするために、年賀状を送るという習慣が自然発生的に広まった。そして、明治中期(20年頃)には年賀状は一般的なものとして定着したようである。つまり、年賀状は年末年始の代用なのである。それでいて、年賀状を出した上に、年末年始の挨拶回りをするというのもおかしなものであるが・・・。

で、ついでに前島密について調べると、彼の人生は面白い。

前島密は1835年(天保6年)に越後(現在の上越市大字下池部)の豪農上野家に生まれる。江戸で洋学を習得したあと、幕臣の前島家の養子となる。そのときに、幕府に漢字廃止論の議を提出する。維新後は明治新政府に出仕して、明治3年から4年にかけてイギリス留学する。帰国後、駅逓頭・駅逓総監などを歴任。郵便、新聞、運輸など近代制度の創設に尽力した。

しかしながら、明治14年の政変で政府を去り、大隈重信らと立憲改進党を結成。その後、東京専門学校(早稲田大学)校長、関西鉄道社長を務めた。そして、明治21年に逓信次官として官界に復帰。電話事業の創始に尽力して官営電話交換制度を設ける。明治24年に退官後は北越鉄道株式会社社長に就任。晩年は男爵、貴族院議員に。1919年(大正8年)に逝去。

大河ドラマになりそうな人生を送っている人に思える。

木曜日, 12月 16, 2010

随分前のことだが虫歯治療完了!

尿路結石になってしまったために、書くのが遅くなってしまったが、11月中旬(もう1ヶ月も前のことじゃん!)に虫歯の治療を終えた。まだ猛暑が厳しい8月中旬頃から治療を開始したのだから、3ヶ月もかかった。治療に行くのが1〜2週間に1回なので仕方がない。

その間に左上の奥歯2本と左下の奥歯1本に金歯を被せた。何年も虫歯を放置していた報いである。それでも抜歯をしなかっただけ幸いである。というのも、知人の歯医者から「抜歯すると隣の歯が弱くなるので、抜歯は極力さけるよう」と言われていたからである。

それにしても、歯医者は疲れる。緊張するから疲れるのかもしれないが、それよりも、口をずっと開けていることが疲れるのだ。人間不思議なものである。食べるときや喋るときに口を開けても疲れないが、何もしないで口を開けていると結構疲れるものだ。

治療の最後の方に、先生に「口を開けないで歯を治療する方法はないもんですかねぇ」と言ったら、アングリされてしまった。

月曜日, 12月 13, 2010

明日から日の入りが遅くなる!?

日の入り(日没)が一番早いのは冬至だと思っている人が意外に多い。これは大変な誤解であって、冬至は1年で日の出と日没の間が一番短い日であって、日の入りが一番早いわけではない。

それでは、いつがもっとも日没時刻が早いかというと、東京では11月29日から今日(12月13日)までが午後4時28分で、明日(12月14日)からは日の入りが遅くなっていく。といっても、冬至(12月22日)の日没時刻は午後4時32分なので、さほど日の入りが早くなったとは感じないだろう。東京で日没が午後5時になるのは1月24日で、ここらあたりになると、なんとなく日が長くなったなぁ、と感じるのではないだろうか。

一方、日の出が一番遅いのは1月上旬で、今年は1月3日から13日までが東京では午前6時51分である。朝が早い人にとってはこの時期が一番辛いに違いない。

金曜日, 12月 10, 2010

ノーベル賞受賞者に思うロマンの違い

ノーベル賞受賞者の先生たちの話や講演を聞いていると、ロマンにはいろいろあるものだなぁ、と思わざるえない。というのも、理系の人と文系の人では根本的にロマンに違いがあると感じるからだ。つまり、理系は未来にロマンを抱くようであり、文系は過去にロマンを感じる、からではないだろうか。

私は基本的に文系なために「未来と過去のどちらにロマンを感じるか」という二者択一の質問をされたら、躊躇なく未来より過去を取る。しかし、未来にもロマンを感じる。金星探査機「あかつき」の失敗などは残念に思う。NASAが発表した生命体の話にも興味があった。ただし、私には未来をロマンするほどの想像力がない。ところが、過去に関してはなんとくイメージが湧き、想像力が起こり、どことなくロマンを感じる。

さて、男と女のロマンの違いは何かなぁ、と考えてみると、男のロマンは妄想的だが女のロマンは現実的だ、と思う。ただ、現実的というのはロマンではないと思うのだが・・・。

木曜日, 12月 09, 2010

木炭から電気まで

昨日、病院へ向かうときのタクシー運転手との会話。

私「最近はタクシーもハイブリット車が多くなりましたね」
タ「燃費が違いますからねぇ。それに静かですよ」
私「タクシーのハイブリット車(の燃料)はLPGでなくてガソリンですよね?」
タ「そうです。いずれタクシーはみんなハイブリット車か電気自動車になりますよ」
私「そうでしょうね。タクシーの走行距離って1日150キロ〜200キロですよね」
タ「私のように昼だけの人間は100キロですよ」

私「田舎の奥様たちが運転している軽自動車はいずれ電気自動車になるでしょうね」
タ「そうでしょうね。彼女たちは1日最高走ったところで20〜30キロですから」
私「となると、スズキとかダイハツは大変でしょうね」
タ「三菱が電気自動車で攻勢をかけていますよ。だけど最後はまたトヨタじゃないですかねぇ」

私「ガソリン、LPG、ハイブリット、そして電気。自動車も変わりますね」
タ「私はその前の木炭車も知っていますよ」
私「えっ〜!」
タ「運転したことはありませんが、戦後の茨城には木炭車がまだ走っていましたよ」
私「私は木炭車なんか見たこともありません」
タ「まだ子供でしたから荷台に乗せられるんですよ。もう真っ黒ですよ」(笑)

私「そうなると、木炭、ガソリン、LPG、ハイブリット、電気と5世代の車に乗ることになりますね」
タ「電気自動車になるまで生きているかどうか・・・」
私「あと2〜3年でタクシーの電気自動車も登場するでは」
タ「そのときは、真っ先に乗らせてもらいますよ。なにぶん先が見えているもんでね。あ、もう病院ですよ」(笑)

水曜日, 12月 08, 2010

「マネーボール」の犠牲者になった岩隈

ポスティングシステムでメジャーリーグ入りを目指していた東北楽天の岩隈久志投手が、独占契約交渉権を落札したオークランド・アスレチックスとの交渉が不成立に終わった。ポスティングシステムで応札があった選手の交渉が成立しなかったのは今回が初めてで、1910万ドル(約15億7500万円)といわれた落札金は楽天に支払われず、岩隈は来シーズンも楽天でプレーすることになった。

私はオークランド・アスレチックスのファンである。1973年以来のファンだから結構年季が入っている(最近はサビも出てきているかもしれない w)。日本で一番最初にアスレチックスのファンサイトを立ち上げたのも私である。

だが、私は現在のアスレチックスのゼネラル・マネージャー(GM)であるビリー・ビーンが好きではない。というより、嫌いと言った方がいいだろう。ビリー・ビーンは「マネーボール」と呼ばれる野球で一世を風靡した球団経営者である。「マネーボール」とは低予算であっても良い成績を残すためにいろいろと考え出された野球理論で、それに共鳴する野球ファンアメリカばかりでなく日本にも非常に多い。それはこの理論にはまると、統計学と経営学を一緒にしたようなゲーム感覚で、まるで自分がGMかオーナー気分なれるからである。

ただ、私はこの理論に興味深い面をもっているが、反対にファン心理を無視していたり、肝心要のプレイオフに弱いとか、問題点も多く共鳴することができない。

そして、今回のビーンの岩隈獲得問題である。そもそも、アスレチックスのような低予算球団が1910万ドルという高額な入札額を出すことから不思議でならなかった。これは明らかにマリナーズやレンジャーズといった他球団への入札を阻止するためのものであり、とても紳士的な行為だと思えない。それでいて、岩隈への提示額は入札額を含めてのものだった、などと脳天気なことを言っていたのである。もし、それが本当ならば経営者失格であるが、敏腕の名で通っているビーンであるから、そのようなことを誰も信じない。

私のようにビリー・ビーンを嫌う人はもちろんアメリカにも多い。ファンとの交流の場にビーンが登場するとブーイングが飛ぶ。今回の岩隈の一件は日本にいるマネーボール=ビリー・ビーン信者に一石を投じたであろう。ビーンは一時を一世を風靡した球団経営者であったが、もはや時代遅れの経営者になった。

というのも、今回の騒動がどうみても昔の読売ジャイアンツと同じように思えてならない。ルール違反しなければ何でもありいう感じだったからである。メジャーにはルールに書かれていない「アンリトンルール」があるが、ビーンはその「アンリトンルール」をどうやら犯してしまったようだ。

ビリー・ビーンよ、早くアスレチックスを去ってくれ。

火曜日, 12月 07, 2010

江戸文化の仕掛人・蔦屋重三郎

先日(3日)、六本木ミッドタウンにあるサントリー美術館で開かれている『歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦屋重三郎』展を見てきた。

蔦屋重三郎(1750年2月13日〜1797年5月31日)は江戸時代の編集・出版人である。浮世絵の喜多川歌麿、東洲斎写楽、戯作の山東京伝、狂歌の大田南畝といった人々の作品を世に送り出したことで知られる。また、吉原のガイドブック『吉原細見』を独占的出版販売をしたり、狂歌と浮世絵を合体させた豪華な狂歌絵本の刊行するなど、当時の流行文化を作り出した仕掛人でもあった。

展覧会は第1章から第4章までに分かれているが、どのコーナーも見所いっぱいで、音声ガイド(500円)を使いながら約3時間を費やして見回った。

第1章「蔦重とは何者か? 江戸の名プロデューサー」
蔦屋重三郎は吉原生まれ吉原育ちという恵まれた環境(?)で過ごした江戸っ子だ。それゆえに、1770年に最初の本屋(耕書堂)を吉原大門の前に開いた。そして、ここで貸本業を皮切りに狂歌本、浮世絵などを出版するようになり、江戸の一大出版プロデューサーになっていく。展示物には蔦屋重三郎の店先の口上絵(葛飾北斎画)、彼自身が狂歌本作者でもあったことなどについても解るようになっている。

第2章「蔦屋を生んだ吉原 江戸文化の発祥地」
蔦屋を最初に有名にしたのは「吉原細見」。地の利を活かして、お店の詳細なことまでが記されていて、年2回(春と秋)定期的に出版され、爆発的な売れ行きを誇ったようだ。しまいには他の類似本をも席巻してしまい、独占販売するような状態になったと言われる。この「吉原細見」の他に、礒田湖龍斉の「雛形若菜模様」シリーズ、喜多川歌麿の「青楼十二時 続」の全12枚など数多くの吉原にまつわる浮世絵が展示されている。

第3章「美人画の革命児・歌麿 美人大首絵の誕生」
喜多川歌麿は蔦屋重三郎に見いだされるまでは、細判の役者絵や絵本、美人画などを描いていた。それが、重三郎のもとで狂歌絵本『百千鳥』など植物、虫類、鳥類、魚貝類を題材にした精緻な作品を描くようになってから、稀にみる才能を発揮していき、独自の美人画を描くようなった。歌麿というと浮世絵が有名であるが、肉筆画も数多く描いている。現在は約40点ほど残されているらしいが、そのうちの「夏姿美人図」が展示されていて、これはもう生唾もの素晴らしい出来だった。

第4章「写楽『発見』 江戸歌舞伎の世界」
東洲斎写楽の役者絵を数多く展示。また、他の浮世絵師と写楽の絵を比較していて、役者そのもの特徴がわかるようにもしている。それにしても、東洲斎写楽はいったい誰であったのだろうか。

「歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦屋重三郎」展
2010年11月3日(水・祝)〜12月19日(日)
http://www.suntory.co.jp/news/2010/10814.html

金曜日, 12月 03, 2010

尿路結石、それは突然やってきた(最終回)

その日(29日)の夜は昼寝をたっぶりしてしまったせいか、時おり起きる痛みのせいか、それとも録画しておいたN響コンサート『アイーダ』を観て興奮してしまったせいか、なかなか寝付けなかった。そのために、もらった座薬を某所に入れたら、あら不思議、朝まで熟睡してしまう。座薬はいろんな意味で特効薬である。

翌日30日の朝からトイレでは朝顔の前に紙コップをもってきて、出てくるかもしれない石を捕獲するように尿を出すようにする。ただし、尿は茶色成分を含むものの石は出てこなかった。その後、朝食を食べるが、やはり身体はどことなくダルい。熱を計ると少し微熱があった。これでは無理である。前日からなかば諦めていたが、この夜の都響のコンサートへは行くことが出来そうになかった。都響のみなさん、ごめんなさい。

こうなると、やることがない。安静にしているしかない。ソファで午前寝、午後寝、ネットサーフィンをしながら過ごす。その間、水分補給を十二分に摂って、尿から出てくる石を捕獲するべくトイレに行くが石はいっこうに出てこない。その日はそんな感じで何事もなく過ぎていった。もちろん、食後には投与された薬を飲んだ。

1日。12月である。師走である。世間は忙しい月であるが、私の方は身体が忙しない。この日はまず体温を計る。平熱に戻っている。ただし、身体がどことなく硬い。あの七転八倒で身体が硬直したのであろうか、とにかく身体をほぐしたかった。そこで、普段より早めに(といっても夕方)ジムに行き、思いっきりサウナと風呂に入り、身体をほぐすことに務める。帰宅後は、両肩および右の背中に貼り薬(モーラズパップ)を貼る。う〜ん、気持ちいい。w

この日も朝から石の捕獲作戦をするものの、ずっと失敗に終わる。尿もだんだん色が薄くなっていき、普段と変わらないようになる。

2日。午後からCT、レントゲン、エコーの検査を受ける。そして、結果は無罪放免(笑)。先生は「腎臓にも、尿管にもどこにも石はありませんね。おそらく出てしまったんでしょうね」。
う〜ん、残念。あれだけ一生懸命捕獲作戦をしたのに、取り逃がすとは・・・。

そして、先生からの注意として「5年以内に半数の人が再発すると言われています。水分補給と食事に気をつけてください。プリン体の多いものは控えるように。お酒ではビールは1杯まで。あと、柑橘類を多めに食べてください。もちろん、野菜もいいですよ」と言われた。

お騒がせの3〜4日であった。今後も尿酸値には気をつけるようにしたい。尿酸値は痛風ばかりでない。尿路結石にも密接に関係している。あと、帰りがけの本屋で立ち読みした本などによると、尿路結石の予防には指圧がいいとのことであった。また、ジェットバスのようなものも効果があるとのこと。私が行っているジムにはマッサージプールやジェットバスがあるので、これからはそこで腰や下腹部など尿管沿いにジェット噴水をかけて予防策に務めたい。

お騒がせいたしました。ご心配をいただいた方々には心よりお礼を申し上げます。

木曜日, 12月 02, 2010

尿路結石、それは突然やってきた(その2)

ホームドクターでの点滴によって、痛みはだいぶ和らいだが、それでもすぐにちゃんとした検査を受けなさいということで、紹介状を持って以前も入院した中目黒にある病院へタクシーで向かった。タクシーのなかでは後部座席にずっと横になっていたので、窓から見える光景がまるで走馬灯のように回って見えた。

病院では泌尿器科に連れていかれ、そこでまず尿を取るように言われ、隣接するトイレ(泌尿器科にはトイレがあることを知る)でコップに尿を入れる。そして、看護婦さんにそれを渡すなり、今度はベッドに横になって座薬を入れられる。「これで15分もすれば、痛みは消えますよ」と言う。

15分どころでなかった。ものの5分で痛みは消えていった。ホームドクターのところでの点滴も一緒になって効いてきたのであろう。これならば椅子にまともに座れる、と思っていると、看護婦さんが「10あった痛みが3ぐらいになりましたか」と聞くので、「2ぐらいになりましたよ」とお礼を言った。実際に顔にも血の気がもどったようになり、視界が明るくなった。

次に、レントゲン室で今度は腹部の写真を1枚撮り、診察室まで戻る。先生は「おそらく尿路結石ですね。CT検査を近日中にしたいので、2日(木)に来てください。そのときまで、薬を飲んで水分補給をいっぱいして、おしっこをたくさんしてください」と言われた。

ここまでくると、背中に違和感はあるものの足取りはしっかりするようになり、薬局に寄って結石のための薬(コスパノン)と利尿剤(ユリーフ)、そして痛み止めの座薬(ボルタレンサポ)をもらって帰宅した。

帰宅したのは午後3時ぐらいだった。朝から何も食べていなかったので、とにかくお腹がすいたので、朝食用のパンとサラダ・ハムエッグを食べ、牛乳をたくさん飲んだ。薬が効いているのか、背中から膀胱にかけて、そして尿道までがなんとなく熱いというかこそば痒い。しかしながら、安心してしまったのか、そのあとはぐっすりと2時間ぐらいは寝てしまった。(続く)

水曜日, 12月 01, 2010

尿路結石、それは突然やってきた(その1)

29日(月)の朝9時頃、いつものようにソファに寝転がりながら新聞を読んでいると、何か右脇腹から背中にかけて妙な違和感を覚えた。しばらくするとその違和感は鈍痛となり、そして激痛になっていき、ベッドに戻り寝ようとした。しかしながら、激痛はどんどんエスカレートするばかりで、顔からは脂汗がしたたり落ち、髪も汗でべったりとなり、下着もビッショリになる。

七転八倒とはこのことである。のたうち回った。身体の態勢をあちこちに変えて、痛みの少ないように試みる。後から知ったのだがベッドのシーツもぐちゃぐちゃになった。頭のなかでは「なんだこりゃ、胆石か尿路結石か」とかけめぐったが、それどころではない。「イタタ、イタタ」と声をあげるしかなかった。こんな激しいというより手厳しい痛みはこれまでの人生で味わったことがない。とにかく痛い。外傷のような痛みとは全く違った痛みが右脇腹から背中にかけて起きているのである。

あまりの痛さにホームドクターのところに電話すると、結石の可能性が高いので少しでも落ち着いたらすぐに来るようにと言われ、家に残っている胃痛など痛み止めの薬(コリオパン)を飲むように言われたので、それを飲んだ。それでも、激痛はいっこうに収まらない。

そのうち、吐き気をもようをしてきた。朝食はまだ摂っていなかったので、お腹のなかは空っぽ。それでも戻してしまった。そしたら、意外なことに少しだけ痛みが弱まり、歩いて5分ほどのホームドクターのところへ行った。待ち合い室には何人も人がいたが、すぐにひとつの診察室に通され、点滴をされた。それが、また痛いのなんのと大変だった。一応病院なので大きな声を出すわけにはいかないが、口を押さえながら必死に喚いていた。

そして、30分ぐらの点滴が終わろうとした最後に、看護婦さんが「これが一番強力な痛み止め」といって、点滴袋に注射針を射し込んだ。すると、不思議なことに痛みがかなり和らいでいった。(続く)