今はラブホテル街として有名な渋谷の円山町。昔は東京でも指折りの花街だった。
江戸時代、弘法大師の弟子という人が神泉谷(現在の井の頭線の神泉駅付近)にあった湧水を使って浴室を作り、それがいつしか「弘法湯」となり、人々が集まるようになった。明治時代に入ると、その「弘法湯」に料理屋が作られ、それと共に隣接する円山町には置屋、料亭、待合茶屋などが次々と生まれいった。そして、明治時代後半に代々木練兵場ができると、円山町は一大花街となっていった。
大正時代に入ると、円山町は三業地(料理屋・待合茶屋・芸妓屋の三種の営業を許可された場所)に指定され、1921年(大正10年)には料理屋36軒、待合茶屋96軒、芸妓置屋137軒、芸妓の数は400名にもなったという。関東大震災(1923年)後は道玄坂の「百軒店」を中心に再開発が進み、昭和に入ると歓楽街として栄えた。
亡父は戦前まで宇田川町(渋谷西武B館の裏辺り)に住んでいたのだが、家の人たちからは円山町には近づくなと言われていたそうだ。しかし、旧制高校の時にはどうやら足を踏み入れていたようである。
円山町は1945年(昭和20年)の空襲で大半が焼けてしまった。戦後は進駐軍のためのキャバレーやダンスホールが建ったようだが、待合茶屋に代わる場として次第にホテルも建つようになり、ワシントンハイツがなくなり進駐軍がいなくなってからはいつしかホテル街に変貌を遂げていった。
私が初めて円山町に足を踏み入れたのは1972年のことで、映画少年だった私は日活ロマンポルノを観たいがためであった。あのときに観た田中真理の美しい肢体はいまだに目に焼きついている。私も父親の血を受け継いだようである。
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