【注意】この文章は映画のネタがバレバレですので、これから観ようと思っている人はなるべく読まないようにお願いします。
真田広之、渡辺謙と日本を代表する俳優がメジャー(アメリカ映画)へ行ってしまった今日、日本を代表する俳優といえば役所広司であり佐藤浩市なのだろう。その二人が出演する『最後の忠臣蔵』だが、配給はワーナーブラザースで、この二人がメジャーへ移籍するのはそう遠くないのかもしれない。
本題である。あらすじは下記の通りであるが、間違ってもこれが実際の話(ノンフィクション)だったと思わないようにしていただきたい。
寺坂吉右衛門(佐藤浩市)は討ち入り後、大石内蔵助(片岡仁左衛門)の命をうけて、後世に真実を伝えることと遺族を援助する目的で泉岳寺へ向かう隊列から外れる。一方、瀬尾孫左衛門(役所広司)は討入り前夜に同じく大石の命をうけて、生まれてくる内蔵助の子供を守る使命のため逐電する。
そして、16年が経ち二人は再会する。孫左衛門は吉右衛門に自分の使命を明かそうとしない。しかし、ゆう(安田成美)などのおかけで美しく成長した内蔵助の忘れ形見可音(桜庭ななみ)は、豪商・茶屋四郎次郎(笈田ヨシ)の嫡男・修一郎(山本耕史)に見初められ、その素性が次第に明かされていき、可音は修一郎と結ばれる。
祝言の日、輿入れの供は孫左衛門ひとりだけだったが、進藤源四郎(伊武雅刀)の計らいで吉右衛門が、そして元赤穂藩の家臣たちが花嫁行列に加わり、茶屋四郎次郎の家に嫁ぐことになる。だが、孫左衛門は祝言の宴には参加することはなかった・・・・。
非常によく出来たストーリーである。見事な日本人の心をくすぐる話にも仕立てあげてある。また、挿入されている人形浄瑠璃「曾根崎心中」も効果的で、演出もこれといって奇をてらったものはなく、感情移入されやすいようにオーソドックスな映像で撮られている。また、キャスティングもほぼパーフェックトといってもよく、誰もがそつのない演技をしている。正直、涙なくしては観られない映画である。名作といわれてもおかしくない映画である。
でも、私は納得がいかない。あの結末はあまりにも日本人的すぎる。なんで祝言の当日に死を選ぶことができるのだろうか。残された可音やゆうの立場はどうなるのだろうか。死を選んだことで内蔵助や可留(可音の亡母)への忠義が果たされたというのだろうか。内蔵助の命は生きて生きつづけよ、という命ではなかったのではないか。
日本人=サムライ=死=切腹というあまりにも安易な図式の海外配給を意識して作られている映画であった。
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