昨年放送された『ブラタモリ』の「鷹狩り」の回で、冒頭に私の母校である目黒区立鷹番小学校が出てきた。鷹番とは江戸時代に鷹狩りのための役人屋敷「鷹番屋敷」があったことに由来している地名である。このことは、小学生のときに耳にタコができるぐらい聞かされた。(笑)その鷹番屋敷の役目といえば、鷹狩りが行われるときの段取りや手配などは無論のことだが、普段は近場の鳥獣類の乱獲禁止の監視、また不逞浪士の身元調査などを行っていた。
鷹狩りとは、本来はその名の通り鷹による狩りであったが、武士が政治を行うようになってからは、狩りというよりも領内視察兼軍事訓練としての意味合いが強くなっていた。鷹狩りが制度化されたのは江戸時代になってからだが、幕府は江戸近隣に鷹場をもうけ、ここで鷹の飼養と訓練をすると共に鷹匠も暮らすようになった。そうした場所の役場が鷹番屋敷だった。ただ、鷹場をを直接管理していたのは鳥見役所であり、目黒では上目黒村にあり、その広さは56,000坪もあったという。そして、この鳥見役所は鷹場の管理だけでなく江戸を守るための諜報機関的な役割も担っていた。
江戸時代、目黒は目黒川を境に東側は大名屋敷があったり、目黒不動尊への休憩所などがあったが、川を境に西側はこれといった何もない農村だった。そのためか、目黒のなかでも16万坪の敷地を擁した「駒場野」(現・東京大学教養学部)、現在の目黒本町五丁目六丁目、原町、洗足一帯の「碑文谷原」、野鴨がいっぱい生存していたと言われる「碑文谷池」(現在の碑文谷公園弁天池)などが、鷹狩りの格好の場所としてたびたび利用されたと伝えられる。
3代将軍家光は鷹狩りを好み、寛永から正保年間にかけて、碑文谷原へ1回、目黒辺りへ6回という記録が残されている。しかしながら、鷹狩りも5代将軍綱吉が出した生類憐れみの令により、7代将軍家継までは目黒では行われなかった。そして、8代将軍吉宗の時代の享保元年(1716年)から再び鷹狩りが復活して、江戸の鷹場は葛西、岩渕、戸田、中野、品川、目黒の『江戸廻り六筋御鷹場』に分けられた。なかでも目黒筋の鷹場は江戸城から近かったために、頻繁に利用されたようである。そして、鷹狩りのたびに田畑は踏み荒らされ、鷹狩りは農民泣かせであったことはいうまでもない。
◎鷹場法度
1. 道路や橋など壊れたら鳥見役の指示に従い良く普請(整備)すること。
2. 鳥見役の案内なくしては鷹匠であっても鷹を放ってはならない。
3. 鳥を追い払ってはならないこと。
4. 餌差しの観察を確認すること。
5. 鷹匠、餌差しの他は鳥をとってはならないこと。
6. 不審者は村内におかず、悪事の相談しているものがいたらすぐに申し出ること。
7. 寺社や野田に新しい屋敷の建築は認めないこと。
◎鷹番小学校内にある立札には下記のように書かれている。
江戸時代、目黒周辺には代々の徳川将軍がしばしば鷹狩りに来ていました。鷹狩りは放鷹といい、飼い慣らした鷹を拳にすえ、山野に放って野鳥を落としたり捕らえさせたりする行事で、将軍が放鷹を行う場所を鷹場(たかば)、御拳場(おこぶしば)、御留場(おとめば)などといいました。この放鷹は本来、武の鍛錬と娯楽を兼ねた行事でしたが、鷹狩りに託して領内の民情などをさぐろうとした傾向もありました。8代将軍吉宗の頃(1716年〜)には江戸周辺5里(約20Km)の範囲に6筋(※葛西、岩渕、戸田、中野、品川、目黒)が設けられました。目黒筋の御鷹場もその一つで、鷹場組合、鳥見役所が設置され、鷹匠や鳥見の役などがおかれて、鷹の飼養、訓練や鷹場の管理にあたりました。また、鷹場の各所に鷹番を置いて鷹場への立ち入りを禁じた高札をたてて村の連帯責任で見晴らせたりしました。このあたりは、目黒筋の鷹番が居住していた所で、その高札も保存されています。鷹番と言う地名もそんな時代の歴史を語るものです。(平成3年3月 目黒区教育委員会)
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