火曜日, 9月 27, 2011

洗濯機は全自動と二槽式の2つある

家には洗濯機が2台ある。1台は自宅の洗面所に、もう1台は仕事場のベランダに置いてある。仕事場にある洗濯機は普通の全自動洗濯機で、こちらは主にジムで着るウエアやタオル類などを洗うために使っている。で、自宅にある洗濯機は下着やシャツなどを洗っているが、こちらは昔ながらの二槽式の洗濯機である。

いまどき珍しい二槽式洗濯機を使っている理由は母親にある。母親はどうも全自動が「どういう洗い方をしているか見えない」ということでお好みでないようである。確かに、全自動は汚れ落ちが確認しずらいし、全自動に比べると洗濯した気分になれる。

少し調べてみると、この二槽式洗濯機はまだまだ根強い人気を保っているようで、一般家庭の5%は二槽式を使っているようである。特に地方や年配者の人気は根強く、メーカー各社もいずれも何種類の生産を続けていて、製造を止めることはないようである。

二槽式洗濯機が根強い人気の理由としては「分け洗いが簡単」「汚れ落ちが途中で確認できる」「節水ができる」「衣類が傷みにくい」などだそうだ。そして、母親のように洗い、脱水、すすぎ、脱水と面倒な作業をするもものの、洗濯をしているという満足感も得ることができる。

ということで、我が家はまだまだ二槽式洗濯機の生活のようである。w

土曜日, 9月 24, 2011

「東日本大震災〜避難所から視たもの〜」

釜石のシープラザ“遊”で見た写真展「東日本大震災〜避難所から視たもの〜」が忘れられない。

この写真展は釜石市只越町で写真館を経営していた菊地信平さん(63歳)が、1台だけ持ち出せたカメラで押し寄せてくる津波や町の様変わり方を分刻みで撮影した写真や、翌日からの避難所、隣町大槌町の様子などの写真200点が展示されていた。その菊地さん自身も自宅兼写真館が被災。5カ月近い避難所生活をしいられた。

そして、その菊地さんの写真が明日(25日)夜10時から放送されるBS朝日の「よみがえれ!東北」で天海祐希のナレーションで紹介されるようである。これまでに数多くの震災関連の写真集が出ているが、彼のような被災者目線での写真集が出版されたらと思う。この番組をキッカケに彼が撮った写真が写真集となり、しっかりした形で記録として残ってほしいものである。加えて、菊地さんが今後撮り続けるであろう復旧復興への姿も記録として残ってもらいたい。

BS朝日 - 「よみがえれ!東北 」(9月25日(日)よる10:00〜10:54)
http://www.bs-asahi.co.jp/touhoku/iwate.html

金曜日, 9月 23, 2011

『おひまさま』(脚本:岡田惠和)の名セリフ

現在放送中の朝ドラ『おひさま』の脚本を書いている岡田惠和(よしかず)は好きな脚本家のひとりだ。これまでに『彼女たちの時代』や『ちゅらさん』など数多くの名作ドラマの脚本を手掛けて来た。そうしたドラマのなかでもいくつもの名セリフを書いていたが、今回の『おひさま』でも印象に残る名セリフをいくつも書いている。そんな名セリフを集めてみた。

今週放送分のなかの語り(若尾文子)の一言。
「悲しみを忘れないで、みんな幸せを求めていた時代だった」

名セリフの決定打は富士子おばあさま(渡辺美佐子)の一言。
「東京だけでなく日本も大丈夫。そんなヤワな国ではありません、私たちの国は」

富士子おばあさまにはほかにも名セリフがある。
「よその人に比べて、自分の辛さや大変さは “大したことはないんだ” なんて思う必要ありません。全くありません。あなたは大変な思いをした。辛かった。悲しかった。それだけでいい。誰かと比べる必要なんてありません」

「あなたが生きていく中で、本当に誰にも頼れなくて、どうしようもなく困ったことがあったら、そのときはわたくしを思い出しなさい。わたくしが助けてあげましょう。そういう人が一人いることは、きっとあなたの強さになるはずです」

「よくあの子に言ってたの。あなたは太陽のようになりなさい、誰の力も借りずに、自分の力で輝いて、みんなを明るく照らす太陽な女性におなりなさい。これからの女性は、何でもできる時代なのよって」

良一父さん(寺脇康文)のこの一言。当たり前だけどなかなか言えない。
「死ぬべき人間なんていない! お前の命はお前だけのものじゃない! 私のものでもある。陽子のものでもある! 春樹のものでもあるんだ!」

良一父さんも富士子おばあさま同様に良いことを言っている。
「お父さんが怖くしていられるのは、お母さんがいるからだろ。怖いお父さんだけじゃ、子供は縮こまっちまう。お父さんが怖くて、お母さんが優しくて、それでちょうどいいんだ」

「21年間、娘でいてくれてありがとう。太陽の陽子のおかげで曇りの日は1日もなかった」

オクトパス(飯田小太郎=近藤芳正)のなにげない一言も良かった。
「女性たちよ、良き人生を!」

茂樹兄さん(永山絢斗)は戦地に赴く気持ちがよく表れていた。
「陽子……、俺は……、星になる。お前は……、太陽になれ」

あと、意外な名セリフだと思ったのが、陽子(井上真央)の一言。
「お店が好きです。だって、お店はいつでも戸が開いてるから」

岡田惠和は女性の心を掴むのが上手いと同時に、女性の声をうまく代弁しているように思う。

水曜日, 9月 21, 2011

脱原発まで節電に努めよう

東京電力から「電気使用量のお知らせ」9月分が届いた。5月分は前年比約25%減、6月分6%減、7月分は6%増(これが不思議でならない)、8月分は26%減だった電気使用量が、今回は前年比24%減という結果であった。

       昨年9月分(30日間)  今年9月分(8/17〜9/15の30日間)
自宅(60A)     492kwh      309kwh   37&減
深夜電力(4kw)   143kwh      178kwh   
仕事場(20A)     54kwh       37kwh   31%減
合計          689kwh      524kwh   24%減

今月のお知らせから「昨年9月分は30日間○○kwhです。今月分に比べ○○%減少しています」と小さく表示されていて、東京電力も少しは利用者に対して節電意識の啓蒙を促すようになった感じである。

昨日からすっかり秋模様になった東京。台風が通過したあとは本格的な秋が訪れるだろう。しばらくの間はパソコンに掲示される「東京電力の電力使用状況」という案内をさほど気にすることはなくなるだろうが、それでも今後もしっかりと節電意識を持ち続けたいと思う。

火曜日, 9月 20, 2011

被災地を訪れて(その6) 〜継続は力なり〜

被災地を訪ねてみて、僭越ながらこれは長い長い闘いになると思った。

被災地が復旧復興するには何年かかるか全く解らない。阪神淡路大震災のときは、その被災地が都市部に集中していて、大阪から近いこともあり、復興への道程はある程度順調にいった。

しかし、今回の被災地はいずれも大都市から離れた沿岸部にあり、広く長くそして遠い。加えて、原発というやっかいな問題も抱えている。

本当にいつ復旧復興するのか見当もつかない。いつ終わるか解らない瓦礫の処理、いつ決定するか解らない都市計画、いつまで続くのか解らない仮設住宅住まい、などなど。すべてが解らないだらけなのである。とにかく一歩一歩進めていかなければならない。

それゆえに、被災地以外の人はいつまでも支援を続けなければならない。いろいろな形で支援を続けていこうではありませんか。ボランティア活動、義援金・支援金・寄付金、ファンド投資、企業投資、物資支援、物品購入、観光などなど。

なにごとも、継続は力なり、である。(連載終了)

写真上:拾得物(写真、位牌など)の公開場となっている釜石市民文化会館の看板。
写真下:少し活気に満ちていた気仙沼魚市場。

月曜日, 9月 19, 2011

被災地を訪れて(その5) 〜木を見て森を見ず〜

震災から半年が経った。マスコミはいまだに続く被災地の厳しい状況を伝えている。それは大事なことである。なぜならば、この震災を風化させない為にも必要なことである。そして、この教訓を活かしていくためにも必要である。

しかし、マスコミはそれだけに終始していないだろうか。現地の状況を伝えるのは当たり前として、各地のボランティアセンターの実情などを的確に伝えているだろうか。また具体的な復興への道のりを伝えているだろうか。というよりも、マスコミとしての提言を行っているだろうか。

3月11日以降、世間にはマスコミ不信が蔓延している。何度も書くが原発事故の原因、その収束の遅れの責任は「政官財学マ」の癒着構造にあり、マスコミも加担している。その後の菅前首相下ろし政局の一因もマスコミだった。マスコミは震災復興、原発収束への足がかりを完全に引き止めていた。加えて、先日の「死の町」報道にしても偏見に満ちていて犯罪的ですらある。

マスコミの論調はいつも同じである。国が悪い、政治家が悪い、官僚が悪い、自治体が悪いというだけで、自分たちの責任をまったく問わない。そして、自分たちは口先で行動もしない。震災に関しても義援金を集めるだけで、ボランティア活動を自分たちで行うこともなければ、支援機構を組織することもしない。なぜならば、ボランティア活動を行って怪我でもしたら、責任を問われなかねないからである。リスクを伴うことはしないのである。ここにもマスコミには責任回避の論理が働いているのだ。

今日のマスコミは本当に建設的でない。創造的でない。それは官僚以上に保身であり、自分たちの権力を失わないように失わないようにという守りの姿勢しかみせていない。報道することは大切だ。しかし、報道することは仕事であって支援ではない。実際に被災地に行ってみて、マスコミは取材するだけで何もしないと、苦言を呈する人が何人もいた。いまだに配慮を欠いた土足であがるような取材をするマスコミがいるそうである。

自戒の念を含めて、マスコミよ、人に話をするなら、人の話をまず聞けよ。(続く)

写真上:大船渡線陸前高田駅近く。
写真下:気仙沼。電線は復旧しているのに、船はいまだに放置状態。

金曜日, 9月 16, 2011

被災地を訪れて(その4) 〜聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥〜

9月11日(日)は震災から半年にあたる日だったが、その日はちょうど岩手県知事選挙および県議会選挙の日でもあった。釜石市では市議会議員選挙も重なったために、前日まで選挙カーがめまぐるしく走っていた。ただ、釜石の中心街に人はほとんどおらず、余所者の私がいうのものも何だが、選挙カーの姿と音声がなにか虚ろに思えてならなかった。

さて、今回の被災地の訪問の目的のなかに、以前取材でお世話になった人に会うということもあった。特に10年前に雑誌『旅』の取材でお世話になった橋上(きょうじょう)市場の菊鶴商店のおばさん(菊池静子さん)にはなんとしても会いたかった。

橋上市場は町の中心部を流れる甲子川に架かる大渡橋に並行する形で1958年に完成した橋(長さ110m、幅13m)で、その上に鮮魚、野菜、お土産品、日用雑貨、食堂など約50店舗が営業する市場だった。ここは日本で唯一の橋の上の市場としても知られ、市民や観光客に親しまれたが、河川法の改正などにより2003年1月に閉鎖され、現在は橋そのものも存在していない。

そのなくなってしまった橋上市場のおばさんに会いたいと思い、ホテルで聞くとすぐに駅前にある「サン・フィッシュ釜石」に居ますよ、という答えが返ってきた。橋上市場の店舗のほとんどは「駅前橋上市場 サン・フィッシュ釜石」に移転していたのである。そして、おばさんは釜石でもそれなりの有名人のようで、後に訪れた平田の仮設住宅の人たちの誰もが知っていた。というわけで、おばさんとは簡単に再会できたのだが、おばさんも家が津波の被害をうけて、以前取材したときの本は流されてしまった。いつしか本を上げたいのだが・・・。

このように再会もあったが、新しい出会いもあった。1日目に大槌町へ行ったとき、プレハブで酒店(酒店というよりコンビニのような感じ)をオープンしたいわき(岩喜)酒店のご主人からいろいろな話を伺うことができた。

ご主人は俳優の勝村政信に似ていて笑顔を絶やさない人だったが、「私も隣にあった自宅と一緒に流されたんですよ。で、左腕を挟まれて九死に一生でした。左腕はその後しばらく痺れていました」と。また、お店周辺の被災前のGoogle Earthの写真と被災後の写真を見比べさせていただき、その違いに言葉を失ってしまった。以前の写真ではお店の周囲には民家が数多く立ち並んでいたのが、被災後の写真は土台しか写っていなかったのである。(続く)

菊鶴商店サンフィッシュ釜石
http://kikuturu.com/

大槌町地場産品復興プロジェクト
http://www.otsuchi.jp/index.html

写真上:いち早くお店を再開した市の中心街青葉通りにある「養老乃瀧」釜石店。

写真下:大槌町のいわき商店。遠くにはまだ瓦礫と化した建物が立っている。写真は撮らなかったが、すぐそばの鉄筋コンクリート製の大槌病院は変わり果てた姿だった。

木曜日, 9月 15, 2011

被災地を訪れて(その3) 〜聞くと見るとでは大違い。百聞は一見に如かず〜

今回の被災地訪問最大の目的は“観光”であった。観光といっても物見遊山で被災地を観光するのではなく、被災地に観光客が訪れる土壌があるのかどうかを実際の目で見極めたかったのである。私は長い間ガイドブックや旅行雑誌の執筆・編集を行っていたので、この分野においてはプロである。そのプロの目から見て、被災地への観光が可能かどうかをどうしても知りたかった。

というのも、ボランティアをしている人たちは若い人が多く、そのほとんどが深夜バスやチャーターバスで来て宿泊もすることなく帰ってしまう。これではボランティアは肉体的および精神的貢献はできても、経済的貢献ができていないのが現実である。彼らは食事もコンビニ弁当で済ませたり、お土産を買う財力も十二分にない。これでは残念ながら被災地に経済効果はなかなか生まれない。ならば、お金と時間を十二分にもっている年配の人たちに被災地に来てもらうしかないのだ。

私は以前より復旧復興には観光客は絶対欠かせないと思っている。観光客が訪れることによってどれだけの経済効果が表れ、そのことが雇用の促進に繋がっていくかは正直解らない。しかし、現在の被災地はどこもかも働き場所がなくて困っている。しかし少しでも観光客が訪れるようになれば、宿泊施設、お土産店、飲食店、コンビニ、宅配業者、タクシーなどで働く人にとっては朗報となり、もしかすると新たなる雇用が生まれる可能性もある。

東京都は9月17日から来年2月末まで東北3県(岩手、宮城、福島)を訪れる人に1日3,000円の補助金を出す制度を実施する。ただ、この制度は旅行会社を通さないといけないので、少し面倒であるが、私はこの制度を利用するしないに関わらず、多くの人が被災地へ行くことを望む。もちろん被災者の心情を理解しない物見遊山な観光は勘弁であるが、被災地の現状を見るということは大切なことであり、そのことによって支援の輪が広がることを願いたい。

で、被災地(釜石、大槌、陸前高田、気仙沼)を回って、私の結論としては釜石と気仙沼は十二分に観光客を受け入れる態勢ができつつあると判断した。

10月に入ると東北は紅葉シーズンに突入する。この時期に多くの観光客が東北を訪れるようになれば、経済の活性化がなされていくだろう。そのときに、できれば釜石や気仙沼などに直接足を運び、そこで地酒や海産物を買えばどれだけ地元の人は喜ぶであろうか。釜石ではすでにホテルサンルート釜石、ベイシティホテル、ホテルマルエ、陸中海岸グランドホテル別館などが仮オープンしているので宿泊することができる。。

今回の訪問で、私が被災地(ほとんどが釜石だが)に直接落としたお金は2泊分の宿泊費、日本酒「浜千鳥」1升瓶2本、釜石のお水「仙人秘水」1箱、日本酒「仙人郷」4合瓶4本、筋子、三陸昆布などお土産費、それに飲食費を加えるとおそらく総額で4万円ぐらいになるだろう。

こうしたお金が増えていくことが被災地の復旧復興に繋がっていくと信じている。とにかく多くの人が被災地を訪れて、その現実を直視すると共にその場で頑張っている人たちと触れ合って、支援の輪を広げていってもらいたい。(続く)

写真上:シープラザ釜石内のお土産店。釜石の銘酒「浜千鳥」そして「仙人郷」などがたくさん売られていました。
写真下:気仙沼漁港のそばにある「お魚いちば」。お昼どきということもあって観光バスが2台来て、結構賑わっていた。

東京都による「GO! TOHOKU 被災地応援ツアー」
http://tcvb.or.jp/ja/go_tohoku/index.html

水曜日, 9月 14, 2011

被災地を訪れて(その2) 〜人は人のために生きてこそ人と申す〜


被災地支援にはいろいろな方法がある。そのなかで、現地の人たちの大きな支えになっているのはやはりボランティア活動だろう。たった半日だけではあるが、そのボランティア活動に参加して、その意義の大切をほんの少しだけだが実感することができた。

今回、私が参加したのは釜石市災害ボランティアセンター(以後ボラセンと略す)。ボラセンは各地にあるが、場所によっては個人の参加を断っているところもあるので注意が必要。釜石市のボラセンは下記のホームページにあるように月曜以外は毎日活動を行い、その報告もきっちりと公開されていて、非常にオーガナイズされている。そして、その活動報告を見ると私が参加した9月10日は個人ボランティアが60名、団体ボランティアが302名だったが、なかでも、2〜3人連れの若い女性が個人ボランティアとして数多く参加していたのがとても印象的だった。

ボラセンの場所は釜石駅近くシープラザ“遊”大型テントの横にあり、駅から徒歩3〜4分。スタッフはみんな若く、私が訪ねたときも非常に明るくキビキビとした応対をしてくれた。

そして、今回私が行ったボランティア活動は釜石中心街にあるビルの1階にある飲み屋さん(クラブ?)の洗浄作業。この洗浄作業には私を含めて男性5人女性2人の計7人が派遣された。洗浄する空間はおおよそ100平方メートル高さは3.5メートル。室内はすでに完全にスケルトン状態になっていて、その天井、壁、床についた泥や磯の香りを取り落とす作業である。

高圧洗浄機は業務用のMakita製。私が普段自宅で使っている家庭用ケルヒャーにに比べて水圧はかなり高く、女性が扱うには少し無理がある。ということで、高圧洗浄機は男性が交代交代で取り扱い、天井や壁を洗い流しいき、その他の人たちは水掻きやデッキブラシなどによる汚れ落としを行った。

釜石の中心街はほとんどが津波に襲われ、木造の建物の多くは流されてしまったが、防波堤や岡村製作所の大きな工場の建物のおかげで、土台のしっかりしているビルは数多く残っている。そのために、すでに再開しているホテルや飲食店もあり、復興への歩みを感じ取ることができる。この飲み屋さんにしても、建物自体が非常にしっかりしているので、経営者のママさんは年内は難しいかもしれないがなんとか早くお店を再開したいとのことだった。そして、再開したあかつきに私が訪れたときは最初の1〜2杯は奢ってくださいね、とお願いしたら「もちろんですよ」という返事をもらった。w

洗浄作業は7人の連携プレイの成果で思っていたより早く終えることができた。

今回ボランティア活動に参加してみて、人と人の触れ合いの大切さ、継続していくことの大切さ、できる限り支えていけなければならないということの大切さなどを学んだ思いである。そして、改めて実感したのが先人の言葉である「人は人のために生きてこそ人と申す」だ。今後もこの言葉を忘れないで生きていきたい。(続く)

写真:釜石市災害ボランティアセンター。左側が事務所。真ん中のテントは休憩所。右側は倉庫。

釜石市災害ボランティアセンター
http://blog.canpan.info/kamaishi-vc/

火曜日, 9月 13, 2011

被災地を訪れて(その1) 〜私のなかに流れている東北の血〜


何を書いていいのか、よく解らない。

何から書けばいいのかすらよく解らない。


被災地へは以前より行きたくて堪らなかった。それは以前に釜石や宮古を訪ねたことがあるからでもあるが、最大の理由は私のなかを流れている東北の血のせいだろう。

以前の日記にも書いたが、私の身体のなかには東北と京都の血がクロスオーバーのようにして流れている。そのなかでも、一番強く感じるのは父方の祖父の血である。昭和5年に亡くなった祖父は山形県庄内地方の出身で、東京で立身出世をして小金持ちになった。そして、そのお金を地元の人に還元したり、庄内出身者たちのための学生寮を建てたりと慈善事業にも相当なお金を注いだようである。そんな祖父や、沖縄で戦死した軍医だった伯父の血が何処か自分の身体のなかを流れているようでならなかった。

それゆえに、大震災後ずっと被災地へボランティア活動および自分なりのジャーナリスティックな視察をしたくて堪らなかった。しかし、3月11日以降も6月頃までは余震が頻繁に続き、年老いた母親を独りにして、現地へ向かうことはとてもできなかった。そして、夏は暑さのために体力的にも無理があり行くのを控えざるをえなかった。ただ、その夏の間にお会いした被災地出身の人たちやボランティアをしている人たちの話を聞いていると、9月になったらという思いがどんどんと募っていった。

そして、やっとの思いで行けるようになった。震災からもう半年になっていて、なにを今更と言う人もいるだろうが、私が被災地へ行く道は遠かったのである。そして、実際に行ってみて、被災地はまだまだ遠い世界にある。それを自分なりにもっと身近な世界にしていきたいと思う。(続く)

写真:私が呆然と立ち尽くした大槌小学校。1階は津波で、2階以降は漂流してきたプロパンガスなどによって火災が発生したそうです。現在、校庭に町役場、消防署、釜石警察署の仮庁舎があります。

東北人と京都人の血が流れています
http://k21komatsu.blogspot.com/2011/06/blog-post_17.html

月曜日, 9月 12, 2011

釜石、大槌、陸前高田、気仙沼を訪れた3日間

◎9月9日(金)
10時56分 新幹線で新花巻到着
11時20分 レンタカーで新花巻を出発。
12時00分 遠野近辺を通過
12時35分 釜石駅到着
12時45分 ボランティアセンターで話を聞く
13時00分 シープラザ釜石でお酒を注文
13時10分 シープラザ遊で地元の写真家の震災に関する写真展を観る
13時45分 大槌町到着 いわき(岩喜)酒店でご主人にお話を伺う
14時30分 大槌町吉里吉里地区到着
15時10分 大槌町に戻り、大槌小学校前で呆然と立ち尽くす
15時50分 宿泊先サンルトート釜石にチェクイン
16時30分 インターネット開始
17時00分 釜石市中心街を散策
19時00分 キッチンカープロジェクトで夕食

◎9月10日(土)
08時25分 ボランティアセンターでオリエンテーション
09時10分 釜石市内でボランティア(高圧洗浄)作業開始
11時40分 作業終了、撤収
12時00分 ボラセンに帰還
12時15分 まんぶく食堂にて昼飯
13時30分 駅前橋上市場 サン・フィッシュ釜石の「菊鶴商店」で10年前に取材させてもらったおばあちゃんと再会。
14時30分 ホテルに戻り昼寝とシャワー
17時00分 資料整理など
19時30分 養老乃瀧にて夕食
21時00分 ホテルでもう一杯

◎9月11日(日)
09時00分 ホテルをチェックアウトして出発
09時10分 釜石市平田地区にある仮設住宅訪問。センター長が不在でお話は伺えなかったのが残念
10時00分 陸前高田市到着。
11時30分 陸前高田市大石地区。地元のおじさんに「動く七夕」の話をお聞きする
12時00分 気仙沼市浜町→商港→漁港
14時00分 お魚いちばの海鮮レストランにて昼食
14時46分 気仙沼漁港で黙祷
15時10分 気仙沼出発
16時50分 ガソリンスタントによって、一関駅にレンタカー返却
17時53分 一関を新幹線で出発
19時35分 仙台を新幹線で出発
21時40分 東京着
22時20分 帰宅

火曜日, 9月 06, 2011

看護師不足を痛感させられる

私が通院している(といっても2ヶ月に1回降圧剤をもらっているだけだが)病院の玄関ロビーに、「看護師募集」という横は5メートル以上高さは3メートル以上はあろうかという横断幕が張られていた。

私の担当医は「ちょっとみっともないですよね」と言っていたが、私はあんな大きな広告幕を作るお金があるならば、もう少し違うところに使った方がいいのにとも思ったりした。

病院は東急東横線中目黒駅近くにありとても近代的な病院で、看護師寮も5つもあるという、看護師さんにとって条件はかなり良い病院である。だが、やはり仕事がいろいろと大変なためだろうか、担当医は「どこの病院も同じかもしれないが、看護師さんの入れ替わりが激しい」そうである。

看護師不足が深刻な事態であることを見せつけられた思いである。

月曜日, 9月 05, 2011

井上ひさし作詞の釜石小学校校歌

昨日、調べものをしていてたまたま知ったのだが、今回の大震災で甚大な被害をうけた岩手県釜石市の市立釜石小学校校歌は作詞が井上ひさし、作曲が宇野誠一郎という『ひょっこりひょうたん島』のコンビだ。

井上ひさしは学生時代の休学中に2年間国立釜石療養所の事務職員をしている。おそらく、その縁からこの校歌を書いたと思われる。

そして、この校歌の詩が実に素晴らしい。

以前、私の出身小学校の校歌について、そこには地名や常套句が何もなく、その校歌が今でも歌えて好きだと書いたことがあるが、この釜石小学校の校歌は生きる喜びを教えていて、校歌というよりも哲学というか人生の応援歌のようで、校歌の範疇を超越している。どんなメロディの歌か全く解らないが、間違いなく活き活きした曲に違いない。こんな素晴らしい校歌を歌える子供たちは絶対に震災に負けないだろう。

一 いきいき生きる いきいき生きる
ひとりで立って まっすぐ生きる
困ったときは 目をあげて
星を目当てに まっすぐ生きる
息あるうちは いきいき生きる

二 はっきり話す はっきり話す
びくびくせずに はっきり話す
困ったときは あわてずに
人間について よく考える
考えたなら はっきり話す

三 しっかりつかむ しっかりつかむ
まことの知恵を しっかりつかむ
困ったときは 手を出して
ともだちの手を しっかりつかむ
手と手をつないで しっかり生きる

http://www.youtube.com/watch?v=BFo6p90dJko