金曜日, 5月 24, 2019

ノーモア長州藩、ノーモア山口県出身の総理大臣

N響公演に行くと誰もがもらえるのが『フィルハーモニー』というプログラム。そこで連載されている片山杜秀の「N響百年史」が興味深い。5月号では鹿鳴館と音楽教育について書かれている。その中で、鹿鳴館建設を主導したのは1879年に外務卿に就任した井上馨(長州藩)で、前任の寺島宗則(薩摩藩)は文部卿に転任して、文部省で音楽取調掛を創設すると述べられている。
 
井上は鹿鳴館で不平等条約を改正するために駐日外交官を西洋音楽と舞踊でもてなして、日本は西洋諸国と同じレベルの国なんだと小手先の手法を講じた。しかし、この手法は6年しか続かず結局さほど大きな成果を上げたることはできなかった。
 
一方、寺島が尽力した音楽取調掛は西洋音楽を義務教育にいかに取り入れるかを研究かつまた実践する組織で、日本の音楽教育の礎を築いた。そして東京音楽学校、東京藝術大学音楽学部を創設して、多くの音楽家を輩出することになる。
 
で、何が言いたいかといえば、この2人を見比べれば分かるように、長州藩出身者は目先であったり自己利益の為に働いた者が多かったが、薩摩藩出身者は「国家百年の計」ではないが、将来を展望した政策を進めた。
 
長野県が教育県になったのは永山盛輝(薩摩藩)が教育の大切さを説いたからだと言われている。また「鬼県令」「土木県令」と言われた三島通庸(薩摩藩)も米沢・福島間の栗子街道、山形・仙台間の関山街道を作ったことによって山形県の陸路としての流通を確保して、後々の山形経済の礎を築いた。
 
で、今日である。吉田松陰や高杉晋作を崇拝する長州藩の末裔・安倍晋三は明治時代の長州人と同じように目先のことというか自分および身内のことしか考えない男である。彼を見ていると、これまでに長州藩もしくは山口県出身で国家百年の計を考えた政治家はいたのだろうかと思ってしまう。
 
最後に山口県出身の人には申し訳ないが、向こう50年いや100年は長州藩・山口県出身の総理大臣が出ないことを切に願う。

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