昨晩は東京ドームに北海道日本ハムファイターズ vs 埼玉西武ライオンズの試合を観に行ってきた。
試合内容は別にして、驚いたのがセンターバックスクリーン上にある電光掲示板の内容であった。この電光掲示板、なんともはや観客に不親切というかサービス精神がない。一番驚いたのが、出場選手の打率や防御率といったデータが全く掲示されない。まだ開幕まもないからなのかもしれないが、いくらなんでもこれは酷い。また他球場の途中経過もまったく掲示されない。そして、リプレイも全然放送されない。
特に驚いたのが初回にいきなり訪れた「リクエスト」のシーンもまったく流されない。メジャーリーグの試合を観ている人はわかるかもしれないが、ビデオで判定を再検証するリクエスト(メジャーではチャージという)のシーンは試合会場でも流れる。ところが、これがまったく流れない。これでは球場で観ているよりテレビで観ている方がいい。
また球場にはやたら広告はあるものの、新たなる電光掲示板を作るという気構えがない。なんでもメジャーリーグと比較するのはいかがかもしれないが、今日のアメリカの球場は巨大スクリーンが1つだけでなく2つや3つあり、観客に細かなデータやリプレイを提供している。
ビール半額デーなどのソフト面のファンサービスは充実しているかもしれないが、ハード面のサービスはかなり遅れている感は否めない。
土曜日, 4月 06, 2019
月曜日, 4月 01, 2019
元号なんか知らなくても暮らせる
新元号発表で朝から晩までマスコミは騒いでいる。愚かだと思う。
私は元号を使わない。というより、意味がないので覚える気もない。唯一私が知っている元号による年は生まれた1954年(昭和29年)だけであり、高校に入学した年、アメリカから帰国した年、会社を辞めた年などは西暦ではすぐに答えられるが昭和何年であるかは知らない。
小学生の頃から歴史少年だった子供にとって元号ほど煩わしいものはなかった。大化改新、平安京遷都、関ヶ原の戦い、明治維新、日韓併合、真珠湾攻撃などすべて西暦で覚えた。なぜならば、西暦で覚えないと、日本と海外の歴史的相違を認識することができないからだ。特に江戸時代は日本が鎖国をしていたために、その違いをはっきりさせておきたかった。パリ革命、アメリカ独立宣言、産業革命、アヘン戦争といった年に日本ではどんなことが起きていたかを認識するためには、元禄◯年、文化◯年といった元号は邪魔でならなかった。
ということで、私に「あれは昭和◯◯年でしたね」と言われても、私は「それは西暦何年でしたっけ?」と答えるしかない。ましてや平成◯◯年、なんて言われたもまるっきりチンプンカンプンである。ということで、元号なんて知らなくても暮らせるのである。
最後にあなたは関東大震災、阪神淡路大震災、東日本大震災を元号年で答えられますか。
私は元号を使わない。というより、意味がないので覚える気もない。唯一私が知っている元号による年は生まれた1954年(昭和29年)だけであり、高校に入学した年、アメリカから帰国した年、会社を辞めた年などは西暦ではすぐに答えられるが昭和何年であるかは知らない。
小学生の頃から歴史少年だった子供にとって元号ほど煩わしいものはなかった。大化改新、平安京遷都、関ヶ原の戦い、明治維新、日韓併合、真珠湾攻撃などすべて西暦で覚えた。なぜならば、西暦で覚えないと、日本と海外の歴史的相違を認識することができないからだ。特に江戸時代は日本が鎖国をしていたために、その違いをはっきりさせておきたかった。パリ革命、アメリカ独立宣言、産業革命、アヘン戦争といった年に日本ではどんなことが起きていたかを認識するためには、元禄◯年、文化◯年といった元号は邪魔でならなかった。
ということで、私に「あれは昭和◯◯年でしたね」と言われても、私は「それは西暦何年でしたっけ?」と答えるしかない。ましてや平成◯◯年、なんて言われたもまるっきりチンプンカンプンである。ということで、元号なんて知らなくても暮らせるのである。
最後にあなたは関東大震災、阪神淡路大震災、東日本大震災を元号年で答えられますか。
土曜日, 3月 30, 2019
イチロー狂騒曲を利用した魑魅魍魎
一連のイチロー引退騒動に終演を告げ、メジャーリーグが開幕した。プロ野球も開幕した。野球ファン待望のシーズン到来である。それにしても、先日までのイチロー引退騒動は見苦しくてならなかった。
私は1973年にアメリカへ行ったとき以来のメジャーリーグファンである。当時、私が住んでいたサンフラシスコ・ベイ・エリアのイースト・ベイにあるオークランド・アスレチックスはレジー・ジャクソンやキャットフィッシュ・ハンターといった名選手が何人もいて、1972年から3年連続ワールド・チャンピオンに輝いた。もちろん、私も何度もオークランド・コロシアムに試合を観に行った。
それから20年。野茂英雄が1995年にドジャースに移籍した時も、仕事そっちのけに野茂を見るためにロサンゼルスに向かい、彼が13奪三振を奪い完封した6勝目の試合を観た。ちなみに、野茂がメジャーに移籍したとき、当時のNPB吉國一郎コミッショナーは大反対で露骨な妨害工作すらした。またナベツネこと渡辺恒雄も「野茂英雄と(エージェントだった)ダン・野村はワル」とまで言った。
そして6年後イチローが渡米した。そのときも私は仕事に格好つけてシアトルに試合を観に行った。松井秀喜が2003年にヤンキースに加入した時も、旅親しんでいるニューヨークで松井の勇姿を目にした。他にもサンフランシスコで新庄剛志、アナハイムで長谷川滋利らの活躍を目撃してきた。
話を戻そう。イチロー引退騒動である。私は昨年5月のブログに「イチロー実質的引退」と書いている。ご存知のようにイチローは昨年5月に登録抹消されて、それ以降はGM特別補佐という名のもと、先日までマリナーズ傘下にあった。つまり、イチローは日本での開幕戦の目玉として保護されていたのである。そして、結果はオープン戦から1割を切っていた打率と同じように、残念ながら無安打でユニフォームを脱ぐことになった。
では、なぜイチローの引退試合がシアトルで行われたかったのだろうか。
マリナーズ vs アスレチックスの開幕戦は読売新聞社主催として東京ドームで開かれることは1年以上前に決まっていた。おそらくその時に、読売新聞はイチローが出場する条件をつけていたのではないだろうか。いくら菊池雄星がマリナーズに加入することが分かっていたとしても、彼だけではお客を呼べることはできない。それゆえにどうしてもイチローが必要不可欠だったのである。ましてや、引退間違いないとなれば、ファンは最後にその勇姿を見たくなるもので、チケットは2試合ともまたたく間に完売した。
そして、この開幕戦でもう一つ注意しなければならないのが、冠スポンサーである日本MGMリゾーツだ。この会社名をご存知の日本人がどれぐらいいるだろうか。おそらく1割もいないだろう。日本MGMリゾーツはラスベガスにカジノなどを所有しているMGMリゾーツの日本法人である。つまり、日本のカジノ解禁を待ち構えている企業、いや後押しをしている会社である。
つまりである。イチローは読売新聞、MGMリゾーツにうまく利用されたのである。観客もそれに踊らされたのではないかと思う。そう考えると、とてもじゃないがイチロー引退騒動を疑問視をせざるをえない。それにしても、こうした疑問を投げかけずイチローの一挙手一投足を美化するだけのマスコミは明らかにおかしい。加えて、二度も断られているのに国民栄誉賞を与えようとしている安倍政権の姑息さには呆れかえる。
イチロー引退騒動の裏には、読売新聞、カジノ、安倍政権といった魑魅魍魎がゴソゴソと蠢いていた事実は忘れないようにしよう。
私は1973年にアメリカへ行ったとき以来のメジャーリーグファンである。当時、私が住んでいたサンフラシスコ・ベイ・エリアのイースト・ベイにあるオークランド・アスレチックスはレジー・ジャクソンやキャットフィッシュ・ハンターといった名選手が何人もいて、1972年から3年連続ワールド・チャンピオンに輝いた。もちろん、私も何度もオークランド・コロシアムに試合を観に行った。
それから20年。野茂英雄が1995年にドジャースに移籍した時も、仕事そっちのけに野茂を見るためにロサンゼルスに向かい、彼が13奪三振を奪い完封した6勝目の試合を観た。ちなみに、野茂がメジャーに移籍したとき、当時のNPB吉國一郎コミッショナーは大反対で露骨な妨害工作すらした。またナベツネこと渡辺恒雄も「野茂英雄と(エージェントだった)ダン・野村はワル」とまで言った。
そして6年後イチローが渡米した。そのときも私は仕事に格好つけてシアトルに試合を観に行った。松井秀喜が2003年にヤンキースに加入した時も、旅親しんでいるニューヨークで松井の勇姿を目にした。他にもサンフランシスコで新庄剛志、アナハイムで長谷川滋利らの活躍を目撃してきた。
話を戻そう。イチロー引退騒動である。私は昨年5月のブログに「イチロー実質的引退」と書いている。ご存知のようにイチローは昨年5月に登録抹消されて、それ以降はGM特別補佐という名のもと、先日までマリナーズ傘下にあった。つまり、イチローは日本での開幕戦の目玉として保護されていたのである。そして、結果はオープン戦から1割を切っていた打率と同じように、残念ながら無安打でユニフォームを脱ぐことになった。
では、なぜイチローの引退試合がシアトルで行われたかったのだろうか。
マリナーズ vs アスレチックスの開幕戦は読売新聞社主催として東京ドームで開かれることは1年以上前に決まっていた。おそらくその時に、読売新聞はイチローが出場する条件をつけていたのではないだろうか。いくら菊池雄星がマリナーズに加入することが分かっていたとしても、彼だけではお客を呼べることはできない。それゆえにどうしてもイチローが必要不可欠だったのである。ましてや、引退間違いないとなれば、ファンは最後にその勇姿を見たくなるもので、チケットは2試合ともまたたく間に完売した。
そして、この開幕戦でもう一つ注意しなければならないのが、冠スポンサーである日本MGMリゾーツだ。この会社名をご存知の日本人がどれぐらいいるだろうか。おそらく1割もいないだろう。日本MGMリゾーツはラスベガスにカジノなどを所有しているMGMリゾーツの日本法人である。つまり、日本のカジノ解禁を待ち構えている企業、いや後押しをしている会社である。
つまりである。イチローは読売新聞、MGMリゾーツにうまく利用されたのである。観客もそれに踊らされたのではないかと思う。そう考えると、とてもじゃないがイチロー引退騒動を疑問視をせざるをえない。それにしても、こうした疑問を投げかけずイチローの一挙手一投足を美化するだけのマスコミは明らかにおかしい。加えて、二度も断られているのに国民栄誉賞を与えようとしている安倍政権の姑息さには呆れかえる。
イチロー引退騒動の裏には、読売新聞、カジノ、安倍政権といった魑魅魍魎がゴソゴソと蠢いていた事実は忘れないようにしよう。
木曜日, 3月 14, 2019
新・北斎展
先日(11日)、六本木ヒルズ内にある森アーツセンターギャラリーで開かれている『新・北斎展』を観る。実は先週も観に行ったのだが、時間帯が悪かったせいか「入館待ち50分」とあり泣く泣く引き返したが、今回は時間帯も変えたこともあり、全く待たずに入場。(^_^)v展覧会は葛飾北斎を春朗期、宗理期、北斎期、載斗期、為一期、画狂老人卍期の6期に分けて作品を紹介しているのだが、いや〜、北斎がいかに“天才”でなく“努力”の人、いや“絵描きバカ”(笑)であるかを知らしめるようになっている。
春朗期(20〜35歳頃)は勝川派の役者絵師と活躍するが、その作品はどれもこれも平凡というか技巧もどことなくぎこちない。ところが、宗理期(36〜46歳頃)に入ると挿絵作家として意欲的かつ独創的な作品を作り上げていき、宗理美人という画風も確立させる。北斎期(46〜50歳頃)に入るとその筆はますます磨きがかかり大判5枚続きの「吉原楼中図」は特筆するものがある。
載斗期(51〜60歳頃)には後の東西の画家に影響を与える『北斎漫画』を書き始める。そして、為一期(61〜74歳頃)になると『富嶽三十六景』をはじめとした錦絵の傑作を生み出し、やはりこの頃が北斎の
絶頂期であると思わせる。最後の画狂老人卍期(75〜90歳頃)は、とにかく大胆な表現力で数多くの肉筆画の名作を生み出した。
数多くある作品の中で私が目にとまったのは3点。前述した「吉原楼中図」は活気ある遊郭の店内を生き生きと描き、その筆跡の精巧さに驚かされる。『富嶽三十六景』シリーズではやはり「神奈川沖浪裏」が素晴らしい。そして、特に私が気になったのが「茶筅売り」。北斎はこの茶筅売りの格好が好きな題材だったようで、この展覧会でも2作展示されている。写真ではちょっと分かり難いかもしれないが、僧侶の格好した男が棒の先に茶筅をいっぱいつけて売り歩いている。江戸時代にはいろいろな物売りがいたが、まさかこんな物売りがいたとは・・・。
それにしても、興味深い展覧会だった。会期は今月21日までと残り少ないが、夕方の時間帯が比較的入りやすいとのことらしいので、時間がある方は是非とも。ちなみに全部見るのに2時間はかかります。
春風亭正太郎 & 柳亭市弥@チェロキー寄席
昨日(13日)は学芸大学「Cherokee LIVE TAVERN」で開かれた春風亭正太郎と柳亭市弥出演の「チェロキー寄席」を聞いてきた。演目は下記の通り。
春風亭正太郎 『風呂敷』
柳亭市弥 『お見立て』
〜 仲入り 〜
柳亭市弥 『芋俵』
春風亭正太郎 『はてなの茶碗』
マクラは先日武道館で行われた「落語カフェ」10周年記念公演の話。『ふろしき』は亭主のいない間にその女房が亭主の知り合いを連れ込んでしまうが、長屋の兄貴分が気転を働かせて男を救うというドタバタ劇。春風亭正太郎は端正かつ小ざっぱりと噺を進めるが滑稽さに欠ける。もう少し弾けても良かったのではないだろうか。
柳亭市弥はマクラでこの日の楽屋裏を暴露。春風亭正太郎との二人会ということで、始まる前に演目合わせをした時に、市弥が『厩火事』をかけようかと話したのに、最初に正太郎が似たような噺の『風呂敷』を演ってしまい、後輩ながらもちょっとご立腹。終演後本人曰く「少し取り乱した」と言っていたが『お見立て』を大熱演。『お見立て』は吉原の花魁にベタ惚れの杢兵衛大尽が生きている花魁の墓参りまでするという話。まあどうでもいいやけっぱちじみた廓噺だが、正太郎に裏切られた(笑)市弥が、その鬱憤をこれまたやけっぱちな勢いで汗をかきながら、楽しい取り乱した話しぶりに場内大爆笑。TPOによるかれもしないが、はじけ飛んだ市弥はめちゃくちゃ面白い。
後半は2人ともマクラ抜きで本題へ。『芋俵』は芋俵に身を隠して入った男が店の丁稚に芋を握られらるという滑稽噺。柳亭市弥は前半の『お見立て』で飛ばしすぎたせいか、こちらはあっさりと。
『はてなの茶碗』は上方落語の傑作で桂米朝が得意とした。京都で一番の目利きの茶道具商・金兵衛が首をひねったことから起こる騒動と顛末を伝える噺。登場人物は金兵衛こと茶金さん、茶碗に目をつけた油売りの男、茶碗の持ち主である茶店の主人、金兵衛の店の番頭、そして最後に公家の近衛公、天子さま、豪商・鴻池善右衛門と次々と出てくるが、春風亭正太郎はそれぞれの特徴を捉えるかのようにしっかりかつ鮮明に演じ分ける。落ち着いた重厚感のある正太郎はもはや二つ目とはとても思えない品格と貫禄を持ち備えている。感服。
春風亭正太郎 『風呂敷』
柳亭市弥 『お見立て』
〜 仲入り 〜
柳亭市弥 『芋俵』
春風亭正太郎 『はてなの茶碗』
マクラは先日武道館で行われた「落語カフェ」10周年記念公演の話。『ふろしき』は亭主のいない間にその女房が亭主の知り合いを連れ込んでしまうが、長屋の兄貴分が気転を働かせて男を救うというドタバタ劇。春風亭正太郎は端正かつ小ざっぱりと噺を進めるが滑稽さに欠ける。もう少し弾けても良かったのではないだろうか。
柳亭市弥はマクラでこの日の楽屋裏を暴露。春風亭正太郎との二人会ということで、始まる前に演目合わせをした時に、市弥が『厩火事』をかけようかと話したのに、最初に正太郎が似たような噺の『風呂敷』を演ってしまい、後輩ながらもちょっとご立腹。終演後本人曰く「少し取り乱した」と言っていたが『お見立て』を大熱演。『お見立て』は吉原の花魁にベタ惚れの杢兵衛大尽が生きている花魁の墓参りまでするという話。まあどうでもいいやけっぱちじみた廓噺だが、正太郎に裏切られた(笑)市弥が、その鬱憤をこれまたやけっぱちな勢いで汗をかきながら、楽しい取り乱した話しぶりに場内大爆笑。TPOによるかれもしないが、はじけ飛んだ市弥はめちゃくちゃ面白い。
後半は2人ともマクラ抜きで本題へ。『芋俵』は芋俵に身を隠して入った男が店の丁稚に芋を握られらるという滑稽噺。柳亭市弥は前半の『お見立て』で飛ばしすぎたせいか、こちらはあっさりと。
『はてなの茶碗』は上方落語の傑作で桂米朝が得意とした。京都で一番の目利きの茶道具商・金兵衛が首をひねったことから起こる騒動と顛末を伝える噺。登場人物は金兵衛こと茶金さん、茶碗に目をつけた油売りの男、茶碗の持ち主である茶店の主人、金兵衛の店の番頭、そして最後に公家の近衛公、天子さま、豪商・鴻池善右衛門と次々と出てくるが、春風亭正太郎はそれぞれの特徴を捉えるかのようにしっかりかつ鮮明に演じ分ける。落ち着いた重厚感のある正太郎はもはや二つ目とはとても思えない品格と貫禄を持ち備えている。感服。
月曜日, 3月 11, 2019
この30年であなたの収入は増えましたか。ドル換算にしても増えましたか
バブルの頃(1990年前後)日本の世帯別平均年収は約664万円あり、当時の為替レートは1ドル=135円だったので、ドル換算にすると約4万9千ドルになった。
あれから30年近くなる。『失われた20年』ではない。もはや『失われた30年』である。現在の日本の世帯別平均年収は550万円と100万円以上も下がり、ドル換算(1ドル=110円)だと約5万ドルで、30年前とほとんど変わらない。しかし、この30年間に消費税をはじめ税金は高くなり、いくら物価が変わらないといっても、明らかに実質収入は減っている。
一方でアメリカの世帯別年収は1986年〜1991年にかけては約5万3千ドル前後だった。それが2018年1月には約5万9千ドルまで上がっている。物価は上がっているものの消費税などの税金の変化はさほどない。つまり確実に実質収入は増えているのである。
このようにドル換算にすると、日本の世帯年収は30年近く停滞したのに対して、アメリカは堅実に上昇を続けている。同様に他の先進諸国ももちろんのこと、東南アジアの新興国でも年収は増加している。それを裏づけるのが訪日外国人の増加であろう。このままだと、日本は先進諸国から置いてきぼりになり、新興国にも追い抜かれていくだろう。
アベノミクスって一体なんだったんだろうか。日銀を使って株価を上げて富裕層だけをリッチにしただけで、国民のほとんどは置き去りにされた政策でしかなかった・・・。
この30年であなたの収入は増えましたか。ドル換算にしても増えましたか。
あれから30年近くなる。『失われた20年』ではない。もはや『失われた30年』である。現在の日本の世帯別平均年収は550万円と100万円以上も下がり、ドル換算(1ドル=110円)だと約5万ドルで、30年前とほとんど変わらない。しかし、この30年間に消費税をはじめ税金は高くなり、いくら物価が変わらないといっても、明らかに実質収入は減っている。
一方でアメリカの世帯別年収は1986年〜1991年にかけては約5万3千ドル前後だった。それが2018年1月には約5万9千ドルまで上がっている。物価は上がっているものの消費税などの税金の変化はさほどない。つまり確実に実質収入は増えているのである。
このようにドル換算にすると、日本の世帯年収は30年近く停滞したのに対して、アメリカは堅実に上昇を続けている。同様に他の先進諸国ももちろんのこと、東南アジアの新興国でも年収は増加している。それを裏づけるのが訪日外国人の増加であろう。このままだと、日本は先進諸国から置いてきぼりになり、新興国にも追い抜かれていくだろう。
アベノミクスって一体なんだったんだろうか。日銀を使って株価を上げて富裕層だけをリッチにしただけで、国民のほとんどは置き去りにされた政策でしかなかった・・・。
この30年であなたの収入は増えましたか。ドル換算にしても増えましたか。
月曜日, 3月 04, 2019
ジムは人間観察(ウォッチング)をするには恰好の場所
私が通うジムのランニングマシーン(トレッドミル)にはテレビがついている。それゆえに、私を含めてほとんどの人がヘッドホンをつけてテレビを見ながら、走ったり早歩きをしている。
私がこのランニングマシーンを使う時間帯は夕方5時台なので、ほとんどのテレビ局がニュース番組を放送している。そして、当然ながら多くの人が自分の好きなチャンネルを選択したり、CMごとにチャンネルを変えたりとザッピングしている。
ここまではごく普通なのだが、最近ちょっとしたことに気がついてきた。チャンネルをよく変える人はNHK、TBS、フジテレビ、テレビ朝日をぐるぐる回すのだが、日本テレビとMXテレビを見る人はCMになってもチャンネルを変えることをほとんどしない。
そして、日本テレビを見続ける人は意外にも女性が多い。これは普段から日テレののバラエティ番組が好きな女性が、その延長線上で日テレのニュースを見ているのではないかと推測される。一方、MXテレビを見ているのはほとんど男性である。MXがこの時間帯に放送しているのはニュース番組ではなく、ニュース記事を面白おかしくランキング形式で紹介する『5時に夢中』という風刺バラエティである。マツコ・デラックスをはじめとした出演者の歯に衣着せぬ物言いは痛快で面白い。
ただ、大相撲が中継されはじめると、多くの男はチャンネルをNHKにする・・・。
ジムは人間観察(ウォッチング)をするには恰好の場所である。
私がこのランニングマシーンを使う時間帯は夕方5時台なので、ほとんどのテレビ局がニュース番組を放送している。そして、当然ながら多くの人が自分の好きなチャンネルを選択したり、CMごとにチャンネルを変えたりとザッピングしている。
ここまではごく普通なのだが、最近ちょっとしたことに気がついてきた。チャンネルをよく変える人はNHK、TBS、フジテレビ、テレビ朝日をぐるぐる回すのだが、日本テレビとMXテレビを見る人はCMになってもチャンネルを変えることをほとんどしない。
そして、日本テレビを見続ける人は意外にも女性が多い。これは普段から日テレののバラエティ番組が好きな女性が、その延長線上で日テレのニュースを見ているのではないかと推測される。一方、MXテレビを見ているのはほとんど男性である。MXがこの時間帯に放送しているのはニュース番組ではなく、ニュース記事を面白おかしくランキング形式で紹介する『5時に夢中』という風刺バラエティである。マツコ・デラックスをはじめとした出演者の歯に衣着せぬ物言いは痛快で面白い。
ただ、大相撲が中継されはじめると、多くの男はチャンネルをNHKにする・・・。
ジムは人間観察(ウォッチング)をするには恰好の場所である。
月曜日, 2月 25, 2019
10年目の「如月の三枚看板 喬太郎 + 文蔵 + 扇辰」
先週の水曜(20日)は銀座ブロッサムで開かれた「如月の三枚看板 喬太郎 + 文蔵 + 扇辰」を聞いてきた。この会も今年で10年目。チケットは完売。
橘家門朗 『道灌』
柳家喬太郎 『次郎長外伝・小政の生い立ち』
入船亭扇辰 『一眼国』
〜 仲入り 〜
橘家文蔵 『ねずみ穴』
開口一番の橘家門朗は橘家文蔵の弟子。滑舌もしっかりしているし、背筋もピンと張っていて話しっぷりも堂にいっている。しかし、登場するや否やマクラもなく自分の芸名すら名乗らず話し出すとはちと如何なものか。
柳家喬太郎の「小政の生い立ち」は講談ネタ。お伊勢参りの帰りに立ち寄った浜松で、次郎長と森の石松が後に小政となる子供の政吉に出会った時のエピソード。次郎長が「我々は『商売往来』にも載っていない稼業だ」というと政吉が「噺家」と答えたり、「清水は春風亭昇太の生まれたところがいけない」など軽いチャチャを入れながら、ほんの15分程度だが次郎長と政吉の話をじっくりと進めていく。なんか続編も聞きたくなるような話だった。
入船亭扇辰の『一眼国』は見世物小屋の香具師が珍しいものを探しに旅に出て、一つ目の少女を見つけて喜ぶがそこは一つ目ばかりの世界。江戸時代の見世物小屋のインチキさ加減を風刺したお話。
橘家文蔵は羽織をつけず登場。踊りでも披露するのかと思ったら、大ネタの『鼠穴』をスタートさせる。『鼠穴』は三文の元手から10年で大きな身代を築いた男の話。6代目三遊亭圓生、立川談志、柳家小三治らが得意としている。文左衛門から3代目文蔵を襲名して2年半。もはや強面の文左衛門でなくすっかりその名跡に恥じない実力の持ち主。あっぱれである。
ただ最後に苦言を一言。今回の終演時間は予定より10分早い20時50分。10年目の節目の年を期待していた客には少しあっさりしすぎていた。
橘家門朗 『道灌』
柳家喬太郎 『次郎長外伝・小政の生い立ち』
入船亭扇辰 『一眼国』
〜 仲入り 〜
橘家文蔵 『ねずみ穴』
開口一番の橘家門朗は橘家文蔵の弟子。滑舌もしっかりしているし、背筋もピンと張っていて話しっぷりも堂にいっている。しかし、登場するや否やマクラもなく自分の芸名すら名乗らず話し出すとはちと如何なものか。
柳家喬太郎の「小政の生い立ち」は講談ネタ。お伊勢参りの帰りに立ち寄った浜松で、次郎長と森の石松が後に小政となる子供の政吉に出会った時のエピソード。次郎長が「我々は『商売往来』にも載っていない稼業だ」というと政吉が「噺家」と答えたり、「清水は春風亭昇太の生まれたところがいけない」など軽いチャチャを入れながら、ほんの15分程度だが次郎長と政吉の話をじっくりと進めていく。なんか続編も聞きたくなるような話だった。
入船亭扇辰の『一眼国』は見世物小屋の香具師が珍しいものを探しに旅に出て、一つ目の少女を見つけて喜ぶがそこは一つ目ばかりの世界。江戸時代の見世物小屋のインチキさ加減を風刺したお話。
橘家文蔵は羽織をつけず登場。踊りでも披露するのかと思ったら、大ネタの『鼠穴』をスタートさせる。『鼠穴』は三文の元手から10年で大きな身代を築いた男の話。6代目三遊亭圓生、立川談志、柳家小三治らが得意としている。文左衛門から3代目文蔵を襲名して2年半。もはや強面の文左衛門でなくすっかりその名跡に恥じない実力の持ち主。あっぱれである。
ただ最後に苦言を一言。今回の終演時間は予定より10分早い20時50分。10年目の節目の年を期待していた客には少しあっさりしすぎていた。
水曜日, 2月 13, 2019
安藤広重と歌川広重は二刀流?
子供の頃『東海道五十三次』の作者は安藤広重と覚えていた。それがいつの頃からか安藤広重という名は使われなくなり、作者は歌川広重と言われるようになった。もちろん安藤広重と歌川広重は同一人物である。では、なぜ安藤広重が歌川広重になったのかをちょっと調べてみた。
広重は江戸の八代洲河岸の定火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として生まれた。下級武士である。広重は幼名を徳太郎といい、のちに重右衛門、鉄蔵また徳兵衛とも名乗った。つまり彼の本名は安藤徳太郎もしくは安藤重右衛門である。そんな男が1809年(文化6年)2月に数え13歳で火消同心職を継いだ。ところが、15歳の時に歌川豊広に入門して広重という名を与えられた。それから、広重は1832年(天保3年)、嫡子仲次郎が元服したのを機に同心職を譲り、絵師に専念するようになった。つまり、それまで広重は絵師と同心の二足のわらじを履いていたというか、二刀流だったようである。
どうやらこうしたことによって安藤という本名と広重という雅号が一緒になって安藤広重という名が伝わったようである。ただ広重自身は絵の世界で生涯「安藤広重」と自ら名乗ったことはなかったようである。いずれにしろ、広重が武士であったことから、その名が明治・大正・昭和と受けつかがれていき、安藤広重と歌川広重が混在するようになってしまったようである。そして、それを避けるために2017年02月15日の文部科学省の「次期学習指導要領等の改訂案」で雅号である「歌川広重」に統一され、「安藤広重」という名は教科書等から消えていった。
しかしである。なんで安藤広重という名を無くしたのであろうか。安藤広重という名があったからこそ、彼が武士であり浮世絵師であったこともわかるのに・・・。まあこれからは『東海道五十三次』の作者は歌川広重と覚えられるようだが、私からすれば別名も覚えておいてほしい。ただ、葛飾北斎のいくつあるか分からない別名を覚えろとは言わないが・・・。(笑)
広重は江戸の八代洲河岸の定火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として生まれた。下級武士である。広重は幼名を徳太郎といい、のちに重右衛門、鉄蔵また徳兵衛とも名乗った。つまり彼の本名は安藤徳太郎もしくは安藤重右衛門である。そんな男が1809年(文化6年)2月に数え13歳で火消同心職を継いだ。ところが、15歳の時に歌川豊広に入門して広重という名を与えられた。それから、広重は1832年(天保3年)、嫡子仲次郎が元服したのを機に同心職を譲り、絵師に専念するようになった。つまり、それまで広重は絵師と同心の二足のわらじを履いていたというか、二刀流だったようである。どうやらこうしたことによって安藤という本名と広重という雅号が一緒になって安藤広重という名が伝わったようである。ただ広重自身は絵の世界で生涯「安藤広重」と自ら名乗ったことはなかったようである。いずれにしろ、広重が武士であったことから、その名が明治・大正・昭和と受けつかがれていき、安藤広重と歌川広重が混在するようになってしまったようである。そして、それを避けるために2017年02月15日の文部科学省の「次期学習指導要領等の改訂案」で雅号である「歌川広重」に統一され、「安藤広重」という名は教科書等から消えていった。
しかしである。なんで安藤広重という名を無くしたのであろうか。安藤広重という名があったからこそ、彼が武士であり浮世絵師であったこともわかるのに・・・。まあこれからは『東海道五十三次』の作者は歌川広重と覚えられるようだが、私からすれば別名も覚えておいてほしい。ただ、葛飾北斎のいくつあるか分からない別名を覚えろとは言わないが・・・。(笑)
火曜日, 2月 12, 2019
ガリ版切り
先日あるところで「昔は字が上手かったんだよ。なにぶんガリ版切りをしていたから」と言ったら、周囲の目がみんなキョトンとしていた。それもそうである、みんなガリ版を知らないのである。
ガリ版(謄写版)はコピーがまだ普及していない時代(1980年ごろ?)までの簡易印刷だった。学校ではテスト用紙はむろんのこと家庭への通知状などはみんなガリ版で刷られていた。また、映画や演劇の台本、サークル活動的な同人誌なども同様にガリ版によって刷られ製本されていた。
印刷の元となる蝋原紙は「ロウ紙」と言われ、そのロウ紙をヤスリ版の上に乗せて、鉄筆でガリガリ原稿を書くことを「ガリ切り」もしくは「ガリ版切り」と言った。でも、なぜ「ガリ切り」と言ったのかが不思議だ。切ってしまったら原紙が元も子も無くなってしまう。正確には「切る」でなく「削る」だと思うが・・・。
ガリ切りは通常字を書くのが上手い者が行ったり、絵心のある者が行っていた。学校の先生の中には「ガリ切り名人」と呼ばれる人がいたりもした。私が初めてガリ切りをしたのは小学校の時だったと思うが、なぜガリ切りをさせられたかといえば、字体が四角ばっていたからだろう。角ばった字体の方がロウ紙のマス目に書きやすくかつまた読みやすく印刷されたからだろう。
それゆえに、小学校、中学校の生徒会報などは随分とガリ切りをしたような記憶がある。ところが、高校に入るとクラスにFというガリ切り名人がいて、彼はタテカンからガリ切りまで書くモノをほとんど請け負っていた。また、私は新聞部に所属したこともあり、ガリ版からオフセット印刷をするようになったために、1970年にはガリ切りを卒業してしまった。
そして、時代は流れ、アメリカではタイプライターを使い、帰国してからもすぐにワープロやパソコンを使うことようになり、手書きはほとんどしなくなってしまい、私の字体はどんどん退化していった。ただ、最後に負けずらいのことを書くようだが、私は決して字は下手ではない。(笑)
東近江市のガリ版伝承館
https://www.youtube.com/watch?v=ggkK6zE08k0
ガリ版(謄写版)はコピーがまだ普及していない時代(1980年ごろ?)までの簡易印刷だった。学校ではテスト用紙はむろんのこと家庭への通知状などはみんなガリ版で刷られていた。また、映画や演劇の台本、サークル活動的な同人誌なども同様にガリ版によって刷られ製本されていた。
印刷の元となる蝋原紙は「ロウ紙」と言われ、そのロウ紙をヤスリ版の上に乗せて、鉄筆でガリガリ原稿を書くことを「ガリ切り」もしくは「ガリ版切り」と言った。でも、なぜ「ガリ切り」と言ったのかが不思議だ。切ってしまったら原紙が元も子も無くなってしまう。正確には「切る」でなく「削る」だと思うが・・・。
ガリ切りは通常字を書くのが上手い者が行ったり、絵心のある者が行っていた。学校の先生の中には「ガリ切り名人」と呼ばれる人がいたりもした。私が初めてガリ切りをしたのは小学校の時だったと思うが、なぜガリ切りをさせられたかといえば、字体が四角ばっていたからだろう。角ばった字体の方がロウ紙のマス目に書きやすくかつまた読みやすく印刷されたからだろう。
それゆえに、小学校、中学校の生徒会報などは随分とガリ切りをしたような記憶がある。ところが、高校に入るとクラスにFというガリ切り名人がいて、彼はタテカンからガリ切りまで書くモノをほとんど請け負っていた。また、私は新聞部に所属したこともあり、ガリ版からオフセット印刷をするようになったために、1970年にはガリ切りを卒業してしまった。
そして、時代は流れ、アメリカではタイプライターを使い、帰国してからもすぐにワープロやパソコンを使うことようになり、手書きはほとんどしなくなってしまい、私の字体はどんどん退化していった。ただ、最後に負けずらいのことを書くようだが、私は決して字は下手ではない。(笑)
東近江市のガリ版伝承館
https://www.youtube.com/watch?v=ggkK6zE08k0
登録:
投稿 (Atom)


