私の本籍地は現在の渋谷西武B館辺りである。というのも、戦前私の祖父の家がここにあったからだ。父はそこで1917年(大正6年)に生まれ、1929年(昭和4年)から1937年(昭和12年)まで渋谷駅より東急東横線に乗って、都立大学(現・首都大学)の前身である旧制府立中学・府立高校に通った。
同じ頃の1924年(大正14年)に、秋田県から一匹の犬が松濤町・大向小学校(現在の東急本店)の隣にあった東大農学部教授・上野英三郎博士に家にやってきた。その名はハチ。ハチは博士に可愛がられたが、翌年に上野博士は急逝。その後はご存知のように、ハチは来る日も来る日も渋谷駅でご主人様の帰りを待ち続け、1935年(昭和10年)に亡くなるまで10年にも及んだ。
ここまで書けばお解りだろう。私の父は嫌がおうでも数年間に渡って毎日のようにハチを見ていたのである。父の話によると、当時の国鉄(現JR)渋谷駅の改札口は、現在の南口近辺にあり、東急東横線の改札口はそれよりも少し南にあったそうだ。ハチは基本的に国鉄渋谷駅改札口周辺をウロウロしていたという。なぜならば、現在は三千里薬局があるところにあった焼鳥屋さんのご主人に可愛がられていたからそうである。そんなハチのことを父はテレビで映画『ハチ公物語』が放送されるたびに、「ハチ公はあんなに綺麗じゃない。もっと薄汚いし、改札前で座って待ってなんかいない。いつもトグロを巻いているように寝ていたよ」と元も子もないことを言っていたのである。(笑)
ハチが有名になったのは、1932年(昭和7年)に東京朝日新聞の「いとしや老犬物語」からである。この記事によって、それまで “野良犬” 扱いだったハチは一躍 “忠犬” となり、誰もが「ハチ公」と呼ぶようになった。1934年(昭和9年)にはハチ公はまだ生存しているにもかかわらず、ハチ公像が作られ、日本青年館で「忠犬ハチ公の夕べ」なる盛大な催しも開かれ、すっかり「渋谷の顔」となった。
ハチが亡くなった後、私の父は府立高校から上野博士が務めていた東大農学部に進み農林官僚となり、今は上野博士やハチ公もいる青山墓地で静かに眠っている。ハチ公とは不思議な因縁があった。
写真は上から、ハチ公、府立高校(都立大学)、柿の木坂駅(都立大学駅)
ハチ公に関する記述は↓が一番詳しく、おそらくもっとも史実に近いと思われる。
http://www.jsidre.or.jp/hachi/hachi-ex.html
追記:今度『ハチ公物語』がハリウッドでリチャード・ギア主演(兼プロデューサー)でリメイクされる。
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