日曜日, 9月 30, 2007

フルート、オーボエ、コンマスのブラームス交響曲第1番

昨日(29日)、NHKホールでのNHK交響楽団第1601回定期公演を聴いてきました。指揮はモーシェ・アツモン。ヴァイオリンはセルゲイ・クリーロフ。当初、指揮はコンスタンティノス・カリーディスが予定されていたが、健康がすぐれず来日ができなくなり、代わって、モーシェ・アツモンが指揮するようなった。

演目
R.シュトラウス/交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」
モーツァルト/ヴァイオリン協奏曲第5番イ長調 K.219「トルコ風」
  〜休 憩〜
ブラームス/交響曲第1番ハ短調

1曲目。いきなり100人編成の大オーケストラ。フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットなどが4人もいる。ヒェ〜。それゆえに見知らぬ顔も何人かいる。まあ、そんなことどうでもいい。指揮のモーシェ・アツモンはいきなり全開です。エンジンがローからいきなりトップギアに入ったかのような指揮ぶりです。この曲はオケで聴くのは初めてですが、かなりダイナミックで劇的で、聴いていて楽しくなった。アツモンにとって今回が初のN響の指揮だが、彼は名古屋フィルハーモニーや東京都交響楽団の指揮者をしているので、日本のオケはかなり熟知しているのであろう。1曲目でオケを掌握してしまった。

2曲目。私があまり得意でないモーツァルト。なぜ得意でないかというと、メロディがダラダラ流れるようになるところが多く、非常に眠くなるからです。それはこのヴァイオリン協奏曲第5番も同じで、聞こえてくるセルゲイ・クリーロフの音色は心地良い。そのせいか、右隣のオジサンも左隣のオバサマも心地良い世界に入っている。こういう緊張感のない曲はどうも私には向かない。私までウトウトしてしまいました。

そして、休憩を挟んでブラームスの交響曲第1番。数多くある交響曲のなかでも、私はこの交響曲が3本の指に入ると思うぐらい偉大な交響曲だと思っています。それはなぜかといえば、バラエティに富みながらも整然としたメロディの数々、交響曲全体を引っ張る弦楽器の厚みと深みのあるテンポとリズム、木管金管など各楽器の特徴を際出せるソロの音色など、この交響曲には凄さと怖さの魅力が満ち溢れているからです。演奏すること自体はおそらくさほど難しくはないだろうが、指揮者およびオケの力量がはっきり表れる交響曲でもある。

第1楽章。ブラームスとしては非常にゆっくりとした入り方。人によっては何? この間延びした出だしは? と思うだろう。しかし、ティンパニー(久保昌一)の威厳のある音、弦のゆったりと流れるN響がもつ独自の統率力のある音がNHKホールの観客を一瞬にして制圧する。しかし、ファゴットかホルンあたりの和音が乱れる。それでも、アツモンはぐいぐいとオケを引っ張っていく。それに応えるべく、藤森亮一率いるチェロおよび店村眞積率いるヴィオラが、まるで地の底から音を這い上がていくかのように低音を奏でていく。いや〜、この厚みと深みです。他の日本のオケにないリズムと音色です。これを聴かずして何を聴くというのだろうかと思うぐらいです。

第2楽章。緩徐楽章。最初にオーボエ(茂木大輔)が高らかにメロディを奏でて、この楽章をリードしていく。それから、穏やかなヴァイオリンの音色が続き、クラリネット(横川晴児)、フルート(客演の高木綾子)などの美しい音色がNHKホールにこだまする。終章部分ではコンマス(篠崎史紀)のヴァイオリンソロとホルン(今井仁志)による掛け合い。篠崎の高音の響きは綺麗な余韻を残していく。短い楽章なのだが、観客からため息が漏れそうであった。

第3楽章。間奏曲。かなりロマンチックな楽章でもある。流れるようなメロディを木管金管の各楽器がリレーしながら奏でていく。この辺りになると、オケ全体の緊張感が和らいでてきて、メンバーはノリノリで演奏していく。

第4楽章。この交響曲のハイライトというか。ブラームス音楽のエキスがすべて入っている楽章です。第一楽章同様にティンパニーが轟く。弦による不吉な感じのメロディで始まる。しかし、それを覆すかのようにホルンが夜明けを告げていく。加えて、この日最高の音色と思われた高木綾子のフルートが響く。そして、あの有名なメロディが怒濤のように流れていく。なかでも、ヴィオラの響きが冴え渡る。あ〜、やっぱりこの曲はヴィオラなんだよなぁと、ひとり悦に入ってしまう。それは不協和音のように聞こえる部分で更に納得してしまう。アツモンは最後の最後は堅実にまとめていく。見事な仕事ぶりでした。

結論としては、私は昨年1月にヘルベルト・ブロムシュテットが指揮したときの名演奏を聴いているので、残念ながらそのときほどの感動は味わえなかった。それでも、フルートの高木綾子(またN響に出演してほしい)、オーボエの茂木大輔、コンマスのまろ様こと篠崎史紀の3人には心からブラボーと言いたい。また、低音部を支えたヴィオラ、チェロ、コントラバスのみなさんに大きな拍手を送りたい。

この日の演奏会の模様は11月2日(金)午前10時からのBS2「N響演奏会」で放送予定になっている。

金曜日, 9月 28, 2007

変わる学校名、進む共学校・中高一貫校化

先日、タクシーで外苑西通りを走っていると、前方の信号標識に「広尾学園前」という見慣れぬ看板が目に飛び込んできた。「そんな学校、あったか?」とまず思い、そして、目を左に向けると「広尾学園」と書いてある学校があるではないか。あ〜、順心女子学園が改名して、共学化に踏み込んだのだとすぐに悟った。というのも、最近都内近郊では数多くの私立校(特に女子校)が急速に共学校・中高一貫校化になっている。

こうした私学の共学校化、そして中高一貫校化への移行は少子化がその最大の理由である。学校といえども、やはり受験者・入学者がいなければ経営は成りたたない。これまでは女子校として長い歴史をもった学校といえども、女子だけでなく男子を入学させることによって経営基盤はしっかりする。このことは男子校も同様である。また、中高一貫校にすることによって、有名大学受験合格者を増えやすことによって、学校の名声を上げて、これまた経営基盤をしっかりすることができる。

少子化の影響は私立校間および大学間の競争を煽ることになり、私立校は早い時期に優秀な学生を確保し、有名大学受験者を多くすることにより、生き残っていこうとする経営戦略である。学校といえども企業と変わりがないのである。

近年共学化の中高一貫校 <首都圏・私立>
http://eri.netty.ne.jp/data/jr_02.htm

木曜日, 9月 27, 2007

大相撲はスポーツではない

朝青龍問題、力士リンチ死亡事件と問題山積みの大相撲だが、私は大相撲をスポーツと思ったことが一度もない。あれはスポーツでなく、彼らが言っているように「興行」でしかない。こんなことはマスコミで働いている人なら誰もが周知しているであろう。それなのに、大相撲は国技だと政府に断わりもなく厚かましく名乗っている。文部科学省は大相撲を国技と認めたことはこれまで一度もない。

私が大相撲がスポーツでないという理由はいくつもある。まず第一に同部屋対決がない。以前は一門対決すらなかったので、少しはマシになったと思う人がいるかもしれない。しかし、柔道、剣道、テニス、卓球、バトミントン、アマチュア相撲・・・、どんなスポーツでも同一チームの選手同士で試合をしている。しかし、大相撲にはそれがない。剣道なんかいつも警視庁同士で戦っているような気がする。(笑)

次に大相撲の取組表は協会が勝手に作り変えることができる。どんなスポーツでも対戦表というのは事前にすべてわかっているはずだ。大相撲がスポーツならば、横綱は上位15人と対戦すると初日に決めるべきである。こうなれば、いくら新入幕力士が勝ち進んだとはいえ、横綱にあたるなんてことはありえない。

いずれにしろ、取組表は横綱を優勝させるようなために作られている。ナンセンスとしかいいようがない。なんで平幕力士が優勝しちゃいけないのだろうか。幕内最高優勝は横綱を倒さなければいけないのだろうか。そうならば、幕内だの十両だの区分けする必要性はなくなる。全く矛盾に満ちている。そもそも相撲は取組といって、試合と言わない。これは習慣かもしれないが、やはりスポーツならば試合というべきだろう。

大相撲は巡業やトーナメント戦を積極的に行って、相撲の普及活動に力をそそいでいる。しかしである。これらの取組はいつも怪我しないように、手抜きで行っている。これも信じられない。高い入場料を取って取組を行っているのだから、どんなときでも真剣に行うべきではないだろうか。つまり、これらは所詮「顔見せ」でしかなく興行なのである。

また、大相撲は入場者数を発表していない。今日どんなスポーツでも入場者数を発表している。それなのに、8割ぐらいしかお客が入っていないのに、満員御礼という垂れ幕を下ろしたりする。税務署は何をしているのだろうか。こんな税金にルーズなスポーツが他にあるだろうか。

だから、私は大相撲をスポーツと呼ぶことはできない。ただ、大相撲は日本の伝統文化であり、歌舞伎などと同様に世界に誇れるものである。それなのに、リンチで力士を死亡させるとは憤懣極まりない。これはスポーツと興行を混同している証なのかもしれない。

火曜日, 9月 25, 2007

ゾンビのような人たちと斜陽な人たち

先日の参議院選挙まで冷や飯を食っていた人たちが生き返った。まるでゾンビのようだ。そして、栄華をほしいままにしていた人は斜陽な人になった。

ゾンビのような人とは幹事長になった伊吹文明(伊吹派)、政調会長になった谷垣禎一(谷垣派)、総務会長になった二階俊博(二階派)、そして党四役に格上げされた選挙対策委員長になった古賀誠(古賀派)の4人の派閥の領袖たちである。彼らはいずれも自民党総裁選でいち早く福田康夫支持を表明した人たちである。

斜陽な人の筆頭は中川秀直だろう。小泉、安倍政権の裏の根回しをしていたのはこの男である。また、中川昭一、石原伸晃、鳩山邦夫といった自民党内タカ派も今度の政権下では完全に冷や飯をくらうであろう。

しかしである。本当に冷や飯どころかまずい飯を食ってもらいたいのは安倍晋三である。

安倍は首相を辞任して一議員として頑張るなんて脳天気なことを言っているが、そんなことは勘弁だから、さっさと議員辞職してくれ。そうでないと自民党選対本部も選挙区の有権者も困るのである。自民党は安倍という貧乏神を抱えていたら、選挙は戦えない。また安倍が次の選挙で立候補したら、山口4区の有権者は安倍に投票するのだろうか。それは常識的にはありえない話である。国政を2週間も停滞させ、国費を数十億も無駄にした男を選挙民は投票できるのだろうか。もし、それでも当選なんてことになったら、山口県は永遠の笑い者である。

政治家は世襲でも家業でもないのだ。

月曜日, 9月 24, 2007

ウルトラの世界は人間愛と宇宙愛の芸術なり


先日青森県立美術館で知った『怪獣と美術 ー成田亨の造型芸術とその後の怪獣美術ー』(三鷹市美術ギャラリーで10月21日まで開催中)に行ってきました。

成田亨は『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』といった初期のウルトラシリーズの特撮美術総監督として、怪獣・宇宙人・メカニックなどのデザインを行い、特撮の世界では神様とまで言われた人である。

三鷹駅前にある会場には休日ということもあってか大勢の来場者。お父さんの手をひきつれてくる子供、美術を勉強していそうな学生カップル、いかにも業界の人々などなど、老若男女が本当にいっぱいなのである。怪獣人気衰えずという感じである。

会場に入ると、まず最初に青森県立美術館などが収蔵している怪獣たちのデザイン画が並ぶ。カネゴン、ガラモン、バルタン星人、ジャミラ、メトロン星人などなど。子供たちが怪獣たちの名前を上げながら、食い入るように見つめている。40年前の絵がまだまだ燦然と輝いていて、子供たちには眩しいのである。その子供たちのためか、展示位置が普通の美術展より10センチか20センチぐらい低くしてある。

成田亨は1929年に神戸市に生まれ、すぐに青森市に移住する。青森高校卒業後、武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)で絵画と彫刻を学んだ。その在学中に映画『ゴジラ』スタッフとして関わったことをきっかけに映画美術の世界に入り、その後は東映撮影所で特撮美術監督となる。そのときに彼は『ナショナル・キッド』を手がけている。『ナショナル・キッド』には地底人や海底人が登場していて、それがウルトラマンに登場した宇宙人に似ていたような気がする。今思えばナショナル・キッドそのものもウルトラマンに似ていなくもない。

東映撮影所を辞めたあと、成田は円谷プロに入社する。そこで前述のウルトラシリーズで手腕を振るった。そして、その後は数多くの映画の特撮美術監督、彫刻家として活躍して、2002年に72歳で他界した。

美術展を見て率直な感想は、成田さんは芸術家だなと思った。それも彫刻の分野では大家に匹敵する力をもっていたと思う。彼が描く怪獣のデザイン画はすべて立体的に描かれている。展示されている彫刻やオブジェなどは鋭敏な感性で作られている。彼は「怪獣=鬼」と考えていたようで、その鬼気迫る個性は現代アートのなかでも突出しているのではないだろうか。

一方、彼が若いころに描いた油絵は意外に凡庸だ。こうした油絵には残念なことに立体感が乏しく、デザイン画のようなこれから生誕するんだという勢いが感じられない。ところが、晩年の2000年にアクリルに描いた2枚のカネゴンの絵は素晴らしい(1枚は下記のアドレスのページに載っている)。この2枚には彼が「人間愛とは何か、宇宙愛とは何か」を問いかけているようなメッセージが込められている。

追記:11月3日から12月24日までは足利市立美術館で行われます。

三鷹市美術ギャラリー
http://mitaka.jpn.org/calender/gallery/

土曜日, 9月 22, 2007

タケノコが名産品だった碑文谷


碑文谷八幡宮のお祭りもあったので、ちょっと私が住んでいる目黒区碑文谷の歴史を調べてみた。意外や意外、この碑文谷という土地の歴史はまだまだ解らないことが多く結構面白い。

碑文谷という地名の由来は諸説あるが、碑文谷八幡宮に碑文の書かれた「碑文石」があり、「碑文石のある里(谷)」にちなんで碑文谷という地名が生まれたというのが、もっとも有力とされている。

碑文谷という地名がいつから使われはじめたかは定かではない。碑文谷八幡宮の創建は鎌倉時代とも室町時代とも伝えられるだけで、正確な記録はない。ただ、江戸時代の文献には碑文谷という地名は記されていて、農家が散在していたという。

1868年(明治元年)、明治新政府武蔵県事令で、碑文谷村は現在の目黒区の区域内に入る三田村、上目黒村、中目黒村、下目黒村、衾(ふすま)村と共には武蔵県に属するとされた。しかし、翌年の1869年(明治2年)には三田村は東京府に、その他の5村は品川県に属することになり、碑文谷村も品川県に帰属することになった。ところが、明治4年の廃藩置県によって品川県は廃止され、東京府荏原郡に編入された。

明治に入ってから碑文谷村および衾村ではタケノコ栽培が活発になり、大正時代にその最盛期を迎えたという。「目黒のタケノコ」は太く、柔らかく、おいしいと言われ、名産品となった。多くの人が目黒のタケノコは自然栽培のように思っているが、農家が手間ひまをかけて作った重要な農産物だった。私が子供の頃にはあちこちに竹林が広がっていたが、今は「すずめのお宿公園」にその面影を残しているだけとなってしまった。

1889年(明治22年)、東京は市制施行となり、荏原郡三田村、上目黒村、中目黒村、下目黒村は目黒村に、碑文谷村と衾村は碑衾村になった。ここで現在の目黒区の大まかな骨格ができあがったといってもいいだろう。その後、荏原郡目黒村は荏原郡目黒町になり、荏原郡碑衾村は荏原郡碑衾町になり、1932年(昭和7年)目黒町と碑衾町が合併して東京市目黒区となった。

ただ、この目黒区になる前に碑衾町は「朝日町」と改称する予定があったという。これは「碑衾(ひぶすま)」という名の読み間違えや書き間違えがあまりに多いため、公募の結果で決定したようだ。ところが、目黒村との合併話と共に立ち消えとなった。今となってはなんと良かったことか。目黒区朝日町なんて味も素っ気もない名前を使うことがなくて、非常に嬉しい限りだ。ちなみに、先日書いたお祭りの碑文谷八幡は旧碑文谷村の鎮守様で、旧衾村の鎮守様は宮前にある氷川神社になる。

碑衾町地図の説明:
東横線学芸大学駅は「碑文谷」、都立大学駅は「柿の木坂」だった。
碑衾町役場は現在の碑文谷警察署から少しダイエー寄りあったと思われます。
碑文谷地区と衾地区の境を現在は環状7号線が走っています。

金曜日, 9月 21, 2007

プレヴィン&N響が奏でるラフマニノフの世界

昨日(20日)、サントリーホールでのNHK交響楽団第1600回定期公演を聴いてきました。指揮はアンドレ・プレヴィン。笙は宮田まゆみ。N響の定期公演も今回で第1600回。凄い数字です。ちなみに、第1回定期公演は1927年(昭和2年)2月20日に予約演奏会として開かれたそうです。

演目
武満徹/セレモニアル——An Autumn Ode(1992)
コープランド/バレエ組曲「アパラチアの春」
  〜休 憩〜
ラフマニノフ/交響曲第2番ホ短調

1曲目。プレヴィンがなぜ武満徹を選んだのかよく解らない。宮田まゆみの笙の音色は澄んでいていて綺麗だが、プレヴィンは難解な武満の音楽を戸惑いながら指揮しているようにしか見えなかった。

2曲目のコープランドはアメリカ音楽に親しみのある私には非常に楽しめた。プレヴィンがこのバレエ音楽をどう料理するのかを、私は密かに期待していたが、彼は得意な映画音楽風に演奏する。目を閉じて聴いていると、私の脳裏には西部の大平原、映画『駅馬車』の撮影で有名になったモニュメント・バレーの風景が浮かぶではありませんか。う〜ん、プレヴィンの術中にはまってしまったような気になりながらも、悠々と流れていく音色に浸っていました。

そして、本日のメインエベントのラフマニノフの交響曲第2番。

まずは結論。この演奏をなんでNHKホールでやらなかったのだろうか! 私はアシュケナージがラフマニノフのピアノ協奏曲の最大の理解者と思っているが、この交響曲第2番に関してはプレヴィンが最大の理解者であろう。ただ、78歳のプレヴィンは渾身の力をふりしぼって自分の十八番を指揮したが、おそらくもう二度とこの曲を日本で振ることはないだろう。

なのに、観客の多くはもう60歳を軽く過ぎようとしている高齢者ばかりで、若い人はほとんどいなかった。NHKホールでやっていれば、10代、 20代に聴くチャンスはあっただろう。ラフマニノフのメロディの優雅さと甘美さ、そしてそれを的確に指揮するプレヴィンの指揮ぶりを若い世代に聴かせたかった。プレヴィンがどれだけラフマニノフを愛して、そして次世代に伝えたかったかを感じた演奏だった。

第1楽章。ゆったりとした悲しみを帯びたメロディ。それに加えてイングリッシュホルン(和久井仁)の悲しい音色。ただ、時間の流れと共にメロディが徐々に悲しみが薄らぎ、喜びに代わっていく。長い長い序奏であるが、プレヴィインはオケに指揮棒をもつ右手、そして柔らかい手首の動きをする左手で指示を次々とオケにしていく。それに応えるべくN響のメンバーも繊細にそして懇切丁寧に音を奏でていく。う〜ん、痺れます。

第2楽章。冒頭にホルンが軽やかなスケルツォのメロディをサントリーホールにこだまさせる。第1楽章とは打って変わってきらびやかなラフマニノフの世界の始まりである。楽章の途中では何度か静寂になったりするが、そのたびにホルンの高らかな音色が響きわたり、まるで立ち上がれかというように鼓舞する。そして、その後にはヴァイオリンの美しいメロディが広がっていく。う〜ん、たまりません。

第3楽章。この曲最大のハイライトはいきなりやってくる。「のだめ」で何度も使われた、あのスラヴ調の優雅にして甘美なメロディがビオラ、チェロ、そしてヴァイオリンから流れてくる。そして、横川晴児が吹くクラリネットがロマンチックな世界へ誘う。胸が高鳴り、足が震えてくる。そして、涙腺も弛んでくる。いつの間にか身を乗り出して聴いている。クラシック音楽を好きになって良かったなと思う瞬間である。恍惚の世界に浸っているかのような気さえする。このメロディ、この音色、この世界、いろんな人に聴いてほしい、感じとってほしい。いつまでもこの時間が流れていてほしい。う〜ん、凄い、凄い、凄いです。

第4楽章。冒頭から勇ましいメロディが奏でられる。プレヴィンの手は水を得た魚のように右に左に動き、オケを明るいラフマニノフの世界へ導いていく。それに呼応するかのように、N響のメンバーたちもワクワク感を自分たちで感じながら楽しそうに演奏している。プレヴィンとN響は完全に一体化して音を奏でている。ラフマニノフを楽しんでている。ラフマニノフを自分たちのものしている。う〜ん、羨ましいです。

終演後、第2ヴァイオリンの女性が代表して、プレヴィンに赤い花束を送った。それを受け取るときの顔は厳しいマエストロの顔ではなく穏やかおじいさんの顔だった。

この日の演奏会の模様は10月12日(金)午前10時からのBS2「N響演奏会」で放送予定になっている。ぜひとも録画して、ラフマニノフだけでも聴いてもらいたい。

火曜日, 9月 18, 2007

自民党に明日はない

小泉純一郎は「自民党をぶっ壊す!」と言って、5年間総理大臣の座にいた。だが、結局彼は自民党および自民党政治を壊すことなく、「郵政民営化」というひとつだけの改革のために、「刺客」という手段を使って国民の政治認識を誤った方向に煽動して、国民の政治認識を麻痺させた。

小泉在任中の5年間に、外交では靖国参拝によってアジア外交のリーダーシップの座を完全に中国に奪われた。国内では竹中平蔵に丸投げした経済政策によって勝ち組負け組などの格差を生み、自分が得意分野であるはずの年金制度や医療制度などの厚生問題には全くメスを入れず5年間放置し続けた。このように小泉は問題を山積にしたまま、勝手に退任した無責任な総理大臣であった。

そのあとを「小泉改革」を継承すると言った安倍晋三は、小泉が残した問題を解決する能力は全くなく、加えて自分の任命能力および監督能力の無さで、ご存じのように政権を放り投げた。そして、現在は次期総理の候補として福田康夫と麻生太郎が立候補している。さて、この二人に総理大臣になる資格があるのだろうか。その答えは明確にノーである。

福田康夫は小泉純一郎、安倍晋三と無責任な二人と同じ町村派(小泉は今は無派閥)であり、ましてや小泉政権の官房長官を務めた人であり、前回の総裁選では安倍を支持した人である。つまり、安倍の政権能力を見誤った人なのである。こんな人に総理大臣になってもらいたくない。一方の麻生太郎にしても同じである。麻生は1年前の総裁選では安倍と競って負けたが、その後は安倍政権の要職にいて安倍を支えた身である。安倍が辞任したのであるから、当然ながら一緒に辞任するのが筋であろう。

自民党総裁選に出る資格のある人は限られないだろうか。前回の総裁選で「安倍」と書かなかった人、そして安倍政権から身を遠ざかっていた人しか資格はないはずだ。となると、谷垣禎一、古賀誠、山崎拓の3人ぐらいしかいない。ところが、この3人はいち早く談合で福田支持を決めた。もう救いようのない人たちである。

田中真紀子は「変人・小泉純一郎」を総裁にした。しかし、現在の小池百合子には舛添要一を総理大臣にする力量はない。自民党はもはや人材不足の政党になってしまった。自民党に明日はない。

月曜日, 9月 17, 2007

ふたつのお祭り(碑文谷八幡宮の秋祭り編)


碑文谷八幡宮の秋祭りは正式には「秋季例大祭」と呼びます。このお祭りは毎年雨に祟れますが、今年はお祭りの期間である15日、16日は両日とも晴天で、こちらも「目黒のさんま祭」同様にもの凄い人出でした。

碑文谷八幡宮は旧碑文谷村の鎮守様で、その氏子の地域は現在の碑文谷、鷹番、目黒本町、原町、南、洗足、中央町の一部にあたり、区立中学も目黒六中、七中、八中、九中と4つあります。

子供の頃の祭りというと、神輿を担いでお菓子をもらったり、フロ券をもらったりした思い出がありますが、中学生の頃は夜のお祭りに出かけては、隣の中学校の可愛い子を追っかけたりと、戯いもないことをした記憶があります。

それにしても、昨年に続いてお祭りに行ってみてびっくりしたのが、その規模がまた大きくなっていることです。昔は地元だけのお祭りだったのですが、最近は神輿の担ぎ手に助っ人を呼ばざるをえなくなったりしているので、外から来る人も多くなりました。地元住民としては嬉しいような寂しいようなちょっと複雑な心境です。

日曜日, 9月 16, 2007

ふたつのお祭り(目黒のさんま祭編)


今日はふたつのお祭りに行ってきました。一つは先日の日記でも書いた目黒区側で行われた「目黒のさんま祭」。もう一つは地元の碑文谷八幡宮の秋祭り。どちらの祭りも晴天に恵まれたこともあってか、もうすごい人出でした。まあ、私のようなミーハーが掛け持ちするのですから、人出が多くのなるのも当たり前ですが・・・。

「目黒のさんま祭」は正式には目黒区民まつりで、今年で31回目になります。ただ、サンマをメインにした「目黒のさんま祭」にしてはからは今年で12回目。会場は田道(でんどう)広場公園および目黒区民センター一帯でかなりの広さです。

無料で配られるサンマは約5000匹。その会場で配られる「さんま引換券」を求めて、目黒川沿いには長蛇の列。その数は私が訪れた10時半頃にはすでに3000人以上になっていたとか。100円で食べられるすり身汁でもその列は100メートル以上にもなっていて、「え、目黒区にこんなに人がいたの?」と思うぐらいです。

会場には日本各地の名産品が出されるふるさと物産展、世界各国の物産販売および模擬店、これ以外にもスタンプラリー、和太鼓、落語などイベントが盛りだくさん。

私はまず一通り見て回ってから、ドイツビール片手にタイのグリーンカレーをいただきましたが、これが実にうまかった。また、帰り際に大分県産のしいたけとカボス、長野県産のじゃがいもなどの野菜を購入しました。結局、サンマは匂いだけのさんま祭りとなりましたが、あまりの人出の多さと暑さに、1時間半ほど見物して退散してきました。(笑)

木曜日, 9月 13, 2007

安倍首相は議員辞職するべし

安倍晋三総理大臣が辞意を表明した。

安倍首相は7月29日の参議院選挙開票時から今日まで、顔はずっとウツロで健康状態はとても正常とは思えなかった。特にテロ特措法延長の話が本格的に持ち上がった以降は、完全に精神的にまいっている様子だった。このことは誰の目にも明らかであっただろう。8月下旬からは風邪も引いていたという。

そんな健康状態だったのにもかかわらず、内閣改造を行い、APEC閣僚会議などの外遊を行い、先日は所信表明演説まで行った。そして、「さあ、質疑応答だ」という日に国会を中止させて、首相官邸で辞意表明の記者会見を行った。なんと無責任極まりない。とても一国の長の行動とは思えない。昨日の辞意表明の記者会見にしても、答弁は的をえないものばかりで、責任を党首会談になすりつけていたりした。これまた首を捻ざるをえない。

安倍首相がいずれ辞めることは、自民党内ではある程度規定路線になっていたという。そして、次は麻生太郎幹事長というのも規定路線になっていたという。しかし、突然の辞任で麻生では総選挙に勝てないという声があり、小泉再登板もあるという。これも無責任極まりない。安倍政権樹立の立役者は小泉前首相である。1年前の自民党総裁選では彼は安倍支持を鮮明にしていた。であるから、今回の安倍辞職には小泉前首相にも任命責任がある。その小泉を再度担ぎ出そうとしている自民党は全く不条理かつ無節操な政党である。

さて、安倍晋三は議員を辞職するべきである。その理由は第一に狭心症の疑いがある病人であるからである。第二に無駄な国費を歳出したからである。第一の理由は誰でもわかることだが、第二の理由は参議院選挙後の無駄になった国費の責任をとるべきである。内閣改造による無駄な閣僚の増産、信用を失った外遊などおそらく10数億円以上の国費を浪費した責任は重い。それゆえに、安倍晋三はその責任をとって議員も辞職するべきである。

首相は激務である。戦後、在任中に亡くなった首相は二人いる。大平正芳は衆参同日選挙の初日に心臓発作を起こして1週間後に死去。小渕恵三はドコモ株疑惑を追及されて、脳梗塞になって1ヶ月後に死去した。安倍晋三は二人のようにならなかっただけ幸いである。しかし、首相という座を放棄したのであるから、潔く議員辞職して政治家から身をひいて、自分の健康に留意するべきである。

安倍晋三さん、議員辞職しましょう。

水曜日, 9月 12, 2007

昨日は夏目雅子の命日


9月11日というと、誰もが2001年の同時多発テロのことを思い浮かべるだろう。しかし、私は22年前の1985年のこの日のことを忘れることはないだろう。

22年前のこの日、夏目雅子は亡くなった。享年27歳だった。

この日、私は下北沢にある本多劇場の事務所に打ち合わせに行っていた。そして、打ち合わせが終わった帰り際に、事務所に届いていた夕刊を勝手に広げたら「夏目雅子、死去」と書かれていた。それを見たとき、私の身体は震えざるをえなかった。そして「ウソだろう〜」と胸の中で叫んだ。

1980年に私は夏目雅子と遭遇したことがある。

その日、朝から仕事で横浜に行っていた私は、池袋にあった会社に帰社するために横浜駅で東横線に乗った。すると、目の前に白い帽子を深く被っている綺麗な女性が座っていた。私はすぐに気がついた、夏目雅子だと。

私の胸はいきなりハイテンションになった。初恋の人に再会したとき以上にドキドキした。彼女はそれから渋谷駅までずっと台本のようなものを読み続けた。私は車窓の景色を眺めたり、週刊誌を見たり、車内広告を見たりといったフリをして、ずっと彼女を見続けていた。今思えばあんな至福の時間はなかった。

そして、その年の12月に彼女の転機となるテレビドラマ『ザ・商社』(和田勉演出)がNHKで放送された。

夏目雅子、永遠に忘れることのない女優さんである。

火曜日, 9月 11, 2007

青森の一八寿司はおすすめです


旅先で寿司屋に入るというのは度胸がいる。これまでに数多くの土地で寿司屋に立寄ったが、正直、ここは絶対おすすめという店はなかった。もちろん寿司屋を訪ねる前には、宿泊先の従業員やタクシー運転手などに聞いて、最低限の情報収集をするが、それでも当たりというお店はなかなかない。

今回、宿泊先で紹介されたお店は二つ。一つは青森県庁前にあり、もう一つは駅前から伸びる新町通り一歩裏の通りにある。共に歩いていける至近距離にある。どっちに行くか迷ったが、後者の方を選んだ。

お店は写真を見ても分かるように、最近店舗を改装したようで、道を挟んだ反対側には別館もあり、地元でも人気の店のようだ。

本館の店内は8席ほどのゆったりしたカウンター、テーブルが4つ、2階にはお座敷があるようだ。私が訪れたのは夕方の6時半過ぎだったが、店内は地元の商店主やサラリーマンでほぼ満席状態だったが、私は幸運にもカウンター席の左端に座ることができた。

まずは生ビールを注文する。普段はアサヒの生を飲む私だが、この日は津軽塗りで出来たカウンターの前に並ぶネタを見て、サントリー・モルツの生を注文する。そして、このお店の親父さんらしき人に「ニギリますか、ツマミますか」と言われたので、刺し身を適当にお願いしますと答えた。

すると、出てきます、出てきます。ホタテ、イカ、赤身、サーモン、ヒラメ、ボタン海老などがあっという間に目の前に整然と並んだ。まずは当然ながら青森なのでホタテを食します。一言、旨いです。文句のつけようがありません。次にイカを食べます。美味しいです。言葉になりません。ここで一杯目のビールがなくなったので、二杯目をお代りする。

青森に来たら、必ずホタテやイカは食します。大抵は駅前にある「食事処おさない」で定食やラーメンを頼みます。ここは良心的な値段で地元の人や出張サラリーマンで賑わっています。ここのホタテやイカも文句のつけどころがありませんが、一八寿司のホタテやイカは非の打ち所がありません。親父さんに「青森のホタテとイカは日本一旨いですね」と言うと、「みなさん、そうおっしゃいますね」とちょっと素っ気ない。こっちも挨拶代わりのセリフなのだから、仕方がないだろう。

サーモンやボタン海老を食しているうちに二杯目のビールもなくなった。やはり、ここは地元の酒を飲むべきだろうと思うと、壁には地元の酒の札が掛かっている。「辛いのにしますか、あっさりしたのにしますか」と若い板前さんに聞かれたので「あっさりをお願いします」と答えると、彼は七戸町の特別純米酒「作田」というお酒を勧めてくれた。これが本当にあっさりしている。アルコールなのに渓流の水のような爽快感がある。これでは、ぐいぐい飲んでしまいそうだ。ガラス製の徳利も一合以上入るようなしっかりしたものだ。酒が旨い。

「いい飲みっぷりですね」親父さんが褒めてくれた。「本当に旨いのですから、飲みっぷりも良くなりますよ」と返した。すると、親父さんは北寄貝のキモを出してくれた。こうなると、酒が益々すすんでていってしまう。そして、私はホヤをお願いした。すると、今度は見事なみかん色のホヤが出てきた。う〜ん、見た目だけでちょっと唸ってしまったが、その味はもっと唸りたくなるような渋味と甘味が調和されたものだった。こうなると、日本酒もお代わりをせざるを得なくなってしまった。

これ以降のことはよく覚えていない。もちろん、握りも食べたが、何を頼んだかよく覚えていない。かといって、酔っ払っていたわけではない。私は刺し身や寿司を肴に、親父さんとの会話を楽しんでいたのである。全国津々浦々、美味しい寿司屋さんはいっぱいある。しかし、その味も板さんの腕と会話次第だと思っている。寿司屋の醍醐味は板さんと丁々発止しながら、新鮮な味覚と会話を楽しむところにある。

最後に気になるお値段。約2時間いたがこれで8000円を下回っている。東京では到底考えられない値段だが、青森でも価値ある価格であろう。ランチの握りもある。

一八寿司(いっぱちずし)
青森市新町1-10-11・TEL 017-722-2639

月曜日, 9月 10, 2007

日本人があまり行かない観光地 デュランゴ


コロラド州南西部、ロッキー山脈のなかにあるサンファン山系の山々に囲まれた町、デュランゴ。人口約1万5千人余の小さな町は、毎年夏になると観光客で賑わっている。なぜかといえば、ここにはアメリカで
もっと有名なSL(蒸気機関車)デュランゴ・シルバートン狭軌鉄道Narrow Gauge Durango & Silverton Trainが走っているからだ。

アメリカには日本のように「鉄ちゃん」「鉄子」といった鉄道マニアはほとんどいないが、それでもやはりSLだけは例外のようで、5月から10月の運行期間中、特に6月から8月のサマー・シーズンには全米各地からドドドッと観光客が訪れてくる。もともとこの鉄道は鉱石などを運ぶための鉄道だったが、車窓からの景色がいいということで、観光鉄道に生まれ変わった。また、西部劇の映画の撮影にもよく使われている。

SLはサンファン山脈の景色を堪能しながら、デュランゴとシルバートンの山間(約45マイル)を、片道3時間かけてゆっくり走る。途中渓谷を走ったり、車窓からいくつもの廃坑となった探鉱跡などを見ることができる。鉄道マニアならば往復6時間の旅を楽しむのだが、ほとんどの乗客は片道だけ鉄道に乗り、帰りはバスでもどってくる。こちらは1時間15分とめちゃ早い。

デュランゴシルバートン狭軌鉄道
http://www.durangotrain.com/

金曜日, 9月 07, 2007

わだば、ゴッホになる


棟方志功記念館は棟方志功の文化勲章受章を記念して、彼の業績を後世に伝えるため1975年11月に建てられた。残念ながら棟方はそのオープンの2ヶ月前に他界している。建物は校倉造り風の鉄筋コンクリート二階建で、前庭には池泉回遊式の日本庭園があり、落ち着いた佇まいである。

記念館に入ると最初に出迎えてくれるのが、高田博厚の手による棟方志功の銅像。棟方と高田は共に鎌倉に住んでいたこともあり、旧知の仲だったようだ。彫刻家でもある棟方を高田は非常に精悍な姿で描いている。我々がよく映像などで見る人懐っこい姿とは違い、この銅像を見ると、展示室には「真面目に見てくれよ」と言われているようだった。

記念館の展示室は2室しかなく、展示点数も数十作品とかなり少ない。この展示規模は、「あまり数多くの作品を展示して、観覧する人々が疲れたり、作品の印象が薄くなったりするよりは、やや少なめの作品数でも一点一点をじっくり見て欲しい」という棟方本人の希望によるものだそうだ。



展示品は板画(棟方は版画と言わない)以外にも、倭画[やまとが](棟方は肉筆画(水彩・墨彩・顔彩など)のことをこう呼ぶ)、初期の油絵、書、陶器などいろんなジャンルに渡る。ただ、棟方には悪いが、展示品の数はやはり少なく、私には少々消化不良だった。私は彼の肉筆画が好きなのでもっと収蔵されているはずの作品を見たかったというのが本音である。記念館では年4回の展示替えを行い、棟方の業績を紹介するようしているというが、遠方からでは簡単に訪れることはできないので、やはり残念でならない。

棟方志功は明治36年に青森市生まれ。彼はゴッホのヒマワリを見て「わだば、日本のゴッホになる」と画家を志して21歳で上京する。彼の油絵は帝展などに入選はするもののあまり認められなかった。しかし、彼が創る版画は昭和13年に帝展に特選に入選する。そして、戦後まず海外で認められ、その後国内にもその素晴らしさが知れわたるようになった。詩人の草野心平は「ゴッホにはならずに。世界の。Munakataになった。」と記している。

記念館ではロビーで棟方を描いたドキュメンタリー映画『彫る 棟方志功の世界』(1975年毎日映画社製作 カラー38分)が随時放映されている。非常に興味深い映画なのでできれば全編見るといいだろう。

棟方志功記念館
http://www.lantecweb.net/shikokan/

木曜日, 9月 06, 2007

青森県立美術館はもう一度訪れたい


昨年、仕事で青森に3回ほど行ったが、行った場所といえば仕事先と温泉だけであった。で、今回はまったくのプライベートな旅なので、温泉だけではなく市内にある美術館巡りをすることを楽しみにしていた。なかでも、最大のお目当ては青森県立美術館だった。

青森県立美術館は2006年7月13日にオープン。三内丸山遺跡の隣に位置していて、市内の南西の外れにある。またすぐそばには陸上自衛隊青森駐屯地もあるせいか、私が訪れたときは隊員たちがメタボリック防止のためか、美術館の周辺をジョギングをする姿が目立った。

美術館は写真にあるように、白い平坦な作りなのだが、その構造はかなりユニークだ。建物の入口は1階にあるものの、美術館の入口はエレベーターで地下2階まで降りて、そこにチケットカウンター(入場料500円)がある。そして、美術館に入るとすぐに目の前に、ここの最大の売り物である、シャガールの舞台背景画3枚が掛けられたアレコホールがある。

アレコホールにはシャガールが1942年にニューヨークで手がけたバレエ『アレコ』の背景画全4点のうちの3点で掛けられている。1点の大きさは縦が約9メートル、横が約15メートルもあり、大きな空間をうまく利用したその迫力と色彩に圧倒される。私も数多くの舞台を見てきたが、これほど素晴らしく迫力の背景画を見たことがない。そして、舞台美術をこのように芸術として展示している美術館を嬉しく思った。

美術館はアレコホールのAから、Qまでの部屋に分かれていて、それぞれが独立したものを展示している。展示作品は主に棟方志功、奈良美智、寺山修司、阿部合成など青森県にゆかりのある芸術家の作品を紹介している。そのなかで、私をもっとも引きつけたのは成田亨と澤田教一の展示だった。

成田亨は1929年神戸市生まれだが、生後すぐに青森市へ移住して、青森中学校(現県立青森高校)を卒業後、武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)に入学。卒業後の54年に映画『ゴジラ』制作に参加したのをきっかけに、映画美術、特撮美術の仕事を始める。そして、彼がもっとも活躍したのはテレビでのウルトラシリーズだった。展示室には『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』に登場した怪獣たちのデッサン数十点が飾られている。

ベトナム戦争の報道写真で有名になった澤田教一は1936年青森市生まれ。54年に青森高校を卒業。米軍三沢基地内の写真店勤務を経て、61年にUPI(United Press International)通信社東京支局に入社する。そして、65年から70年までの5年間、ベトナムやカンボジアなどで戦場カメラマンとしてインドシナ半島の現況をカメラを通じて全世界に伝えた。今回の展示にはピュリッツァー賞を受賞した有名な写真《安全への逃避》や《泥まみれの死》などの他に、遺族から借用したヘルメットやカメラなどの遺品も展示されていた。

青森県立美術館はオープン30日で入場者数が5万人を突破。また今年の5月までの約10ヶ月間で25万人の総入場者数を記録するなど、過疎地の美術館としては人気の美術館となった。今回、私が美術館にいた時間は2時間余だったが、それだけでは到底展示品を堪能することはできなかった。青森県立美術館にはもう一度訪れようと思っている。

青森県立美術館
http://www.aomori-museum.jp/ja/

水曜日, 9月 05, 2007

青森に買い出しに行ってきました


行きつけの飲み屋に送った品物
・本マグロの中トロ1片
・すじこ約1キログラム
・十三湖のしじみ約1.5キログラム
・生うに2皿

行きつけの寿司屋に送った品物
・ほたて20枚
・ホヤ1皿
・すじこ約500グラム


自宅に持ち帰った品物
・日本酒(佞武多)760ml2本
・十三湖のしじみ約500グラム
・すじこ約500グラム
・青森産にんにく(大)10ヶ
・黒石牛すき焼き用500グラム

自宅に送った品物
・りんご10個

http://www.auga.co.jp/com/guide/floor_guide_bf.html
すじこは内山商店
ほたてとマグロは中畑商店
しじみ、うに、ホヤなどは野呂商店
黒石牛は肉のナリタ


というわけで、青森の温泉や美術館巡りをしてきました。(笑)
このへんの話は今度書きます。今晩はとりあえず行きつけの飲み屋です。