木曜日, 8月 16, 2007

旧勧銀グラウンドがフランチャイズ


碑文谷公園は2001年4月に、これまでの碑文谷池を中心とした一画だけの公園から、隣接していた「旧第一勧銀グラウンド」の体育館、野球場、テニスコート(6面)などがある一画を合併して、新しい公園としてスタート。旧第一勧銀グラウンド側には体育館などのスポーツ施設以外にポニーに乗馬できるこども動物広場もある。

碑文谷公園は昔から動物が多くいた公園だった。昔はボート乗り場が砂場やブランコのある遊び場(遊具コーナー)に隣接していて、その乗り場の近くにはウサギ、クジャク、小さな猿などを飼う檻があり、子供たちがエサを上げたりすることができた。

その頃から、隣の勧銀グランウド(第一銀行と合併する以前なので)は子供たち、特にワンパク小僧たちにとっては絶好の遊び場だった。特に北東角にある門の前の一角(今は駐車場になっている)は、野球(といってもボールは小さいソフトだった)をやるのに絶好のスペースで、私たちは管理人のおじさんに怒られながらも、よくここで野球をやっていた。

私が子供だった1960年代には、東京といえどもまだあちこちに空地があった。しかしながら、野球をやると隣接する家のガラスを割ったりする危険性があったので、意外に野球をするスペースはあまりなかった。そんななかで、ここは私たちにとってフランチャイズ球場であった。今思うと、よくあんな狭いスペースで野球をやっていたかと思うと不思議に思うが、当時の子供たちにとってそこは天国のような空間に思えた。

そして、私たちが野球をやった一角の奥には、昭和初期に建てられた青い平瓦の2階建てクラブハウスがあった。そして、このクラブハウスを碑文谷公園に合併させるときに、住民の間では存続させようという運動があった。私はこの建物の中に何度も入ったことがあるが、素人目にはどうしても存続させるような建物には思えなかった。それよりも、南西角にあった明治時代の勧銀本店別棟と言われる建物、北東の門の道を隔てたところに建っていた「勧銀倶楽部」の看板があった二つの木造建築は残してほしかった。ただ、共に維持するには相当のお金がかかること、また地震や火災に弱いといったことなどから解体されてしまった。茶室や生け花教室など文化面でうまく使えるような建物だったので残念でならない。

今日、グラウンドでは野球やテニスをプレイする人が、周囲をウォーキングをする人が、芝生の上で子供と遊ぶ人がと、数多くの人が楽しんでいる。その昔、このグラウンドは週末だけ銀行員やその家族で賑わっていたが、平日はいつも閑散していたので、公園となってかなり有意義なスペースとなった。つまり、その昔、私たち子供が野球をすることは、平日の有効利用だったのである。(笑)

写真上:1964年(昭和39年)の野球少年たち
  下:私たちが野球をしていたところ

碑文谷公園
http://www.city.meguro.tokyo.jp/midori/park/detail/himonya.htm

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