木曜日, 8月 09, 2007

笹崎ボクシングジムはメモリアルな場所

東横線学芸大学駅近辺でもっとも有名なお店といえば、洋菓子のマッターホーン。もっとも親しまれている場所といえば、碑文谷公園だろう。そして、もっともメモリアルな場所はどこかと言えば、それは笹崎ボクシングジムではないだろうか。

笹崎ジムは戦後の日本ボクシング界をリードした名門ジムであり、ボクシング史上に燦然と輝く歴史がある。ジムの創設は1946年で創設者は笹崎タケシ。笹崎タケシはピストン堀口のライバルとして活躍した昭和初期を代表するボクサー。鋭いストレートに威力があり「槍の笹崎」とも呼ばれ、日本ライト級チャンピオンの座についている。当初ジムは現在地にあったわけでなく、サレジオ教会に隣接した馬舎を修復して開設した。

ジムが現在の目黒区鷹番3丁目に移設したのは1951年5月で、昼はトレーニング場、夜は芝居、ストリップ、浪曲等の興行を催すホールだった。正式名は笹崎ボクシングホールだったが、近隣の人には笹崎座と親しまれた。

私が笹崎ジムを知るようなったのは小学校に入ってからだから1960年以降のことになる。その当時、ジムには1962年に世界フライ級チャンピオンになったファイティング原田が在籍していて、ジムの周りにはいつも黒山の人だかりができていた。

ジムは1964年7月に東横線高架工事のために、一時的に東口商店街から少しへ北へ入ったあたりに一時的に移転した。私は学校帰りに商店街を寄り道しながら、時折ボクシングジムを覗いたりしていた。ファイティング原田はビニール製のヤッケ姿で小学校の近くをロードワークをしていたので、登校時や帰宅時にその姿を見ていた私たちは「シュッ、シュッ、シュー」と口づさみながら、シャドウボクシングの格好を真似したりした。また、この年には後にコメディアン・たこ八郎として有名になった元全日本フライ級チャンピオンの斉藤清作が引退した。私は残念ながら彼が練習している姿の記憶が全くない。

当時のボクシングのチャンピオンというのは英雄だった。というのも、1960年代までボクシングの階級はフライ、バンタム、フェザー、ライト、ウェルター、ミドル、ライトヘビー、ヘビーの8階級しかなく、世界チャンピオンと名乗れる人は世界で8人しかいなかったのである。ところが、現在では階級は17にも分かれていて、世界タイトルを認証する団体は世界ボクシング協会(WBA)、世界ボクシング評議会(WBC)、国際ボクシング連盟(IBF)、世界ボクシング機構(WBO)などがあり世界チャンピオンと名がつくボクサーは世界で70人以上もいるのである。

それゆえに、ファイティング原田は私たちにとっては英雄であり、おそらく大人たちからすれば町の誇りであったに違いない。原田はその後、減量苦から階級をバンタムに上げ、そこでも世界チャンピオンになった。そして、3階級制覇をめざしてフェザーでもボクシングを続けたが、残念ながらベルトを巻くことはできなかった。

1968年12月に現在の目黒区鷹番に5階建ての笹崎ボクシングビルが完成して、現在に至っている。ここからファイティング原田を筆頭に、海津文雄、牛若丸原田、ムサシ中野、ライオン古山などの王者が輩出された。現在は日本フライ級チャンピオンの吉田健司が在籍している。

笹崎ボクシングジム
http://www.sasazakiboxinggym.com/

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