金曜日, 6月 29, 2007

銘酒の蔵元は佐々木蔵之介の実家

昨今は焼酎人気のおかげで日本酒はあまり飲まれなくなってしまった。それでも、旅に出かけると、なぜかそれぞれの地元の日本酒を欲してしまう。飲兵衛ならではのことだが、やはり地元ならでのお酒があったりして、ついつい蔵元を探しては、試飲と言いつつ何杯も飲んでしまう。(笑)

これまでに数多くの蔵元を訪ねきたが、なかでも印象に残っているひとつが、京都の佐々木酒造だ。現在、伏見を除く京都市内(洛中)には3軒の蔵元があるが、ここはそのひとつである。京都というところは、水が豊富で平安時代から酒造りが盛んな町であった。室町時代には342軒もの蔵元があったという古文書もあるぐらいだから、間違いなく全国一の酒どころであったに違いない。そして、江戸時代元禄年間には酒造高が13万石、造酒屋が1000軒余となり、京都は水の町というより酒の町と化していた。(笑)しかし、その後何度かの大火や区画整理によって、数多くの蔵元はおいしい水を求めて洛中から伏見に移転してしまい、現在ではたったの3軒になってしまった。

その3軒の蔵元を取材する仕事したのだが、佐々木酒造を訪れる前に私はちょっと道に迷ってしまい、人に道を訊ねたら「ああ、蔵之介さんの家ね。最近、若い女性がいっぱい訪れるようで、人気あるみたいね」と言われて、初めて俳優・佐々木蔵之介の実家であることを知った。

佐々木蔵之介は高校卒業後、東京農業大学農学部醸造学科に進学するもののすぐに中退。翌年神戸大学農学部に入学。大学卒業後広告代理店に勤務して、将来は醸造の道へ進むはずだった。しかし、大学時代に始めた芝居にずっぽり浸かり、腹筋善之介、西田シャトナー、保村大和らと共に劇団惑星ピスタチオを結成して、関西では一躍人気役者となった。このために、勤めていた会社も辞めて、役者として生活するようなっていった。

私が訪れたときはNHKのテレビ小説『オードリー』の幹幸太郎役を演じた後だったので、世間的にも名が知られるようになり、ちょうど脚光を浴びるころだったのかもしれない。現在は大河ドラマ『風林火山』で真田幸隆役を演じているので、ぜひとも見ていただきたい。

そんな彼と私は仕事をしたことはないが、終演後の宴席で話をしたことがある。で、ある時、私が取材に行ったときにお兄さんに丁寧に応じもらったことを話したら、彼は「聞きました、その話。お酒より芝居の話になったそうですね」と。いや〜、私はそんなことはなかったと思うのだが、ついつい試飲していたら、芝居の話になったのかもしれない。「取材はともかく、とても美味しいお酒なので嬉しかった」ですと伝えると、彼は本気で喜んでいた。

京都にお住いのみなさんも、アメリカにお住いのみなさんも、ぜひとも佐々木酒造のお酒を一度飲んでみてください。「聚楽第」「古都」など十数銘柄があるが、なかでも川端康成の揮毫(きごう)したラベルの「古都」は逸品です。よろしくお願いします。(笑)

なお、佐々木“蔵之介”という芸名は、実家が酒屋さんということから付けられていることは云うまでもない。

佐々木酒造
http://jurakudai.com/web/index.html

水曜日, 6月 27, 2007

サレジオ教会=ダルフィオール神父

サレジオ教会の名は信じられないほど有名だ。その最大の理由は松田聖子と神田正輝が結婚式を上げたことによる。ただ、私にとってはサレジオ教会は通ったサレジオ幼稚園の教会であり、街のランドマークでもある。そして、私のようにサレジオ幼稚園に通った者にとっては、サレジオ教会=結婚式ではなく、サレジオ教会=ルイジ・ダルフィオール神父ではないだろうか。

現在のサレジオ教会の大聖堂は、私が生まれた1954年(昭和29年)に完成した。その外観はロマネスク様式建築で、総建坪317坪、奥行き47m、幅16m、高さ23m、塔の高さ36mという当時では国内最大級の大きさであった。また、内装にはイタリア産の大理石やステンドグラスが使用され、今でも屈指の美しい大聖堂と言われている。そして、この大聖堂の建設と平行して幼稚園の開設が準備され、同年5月9日には70人の園児で開園された。その初代園長がダルフィオール神父だった。

ダルフィオール神父は1913年イタリア・ベローナに生まれ。1930年に弱冠17歳にして来日。以降その人生すべてを日本での布教活動に捧げた。戦前は彼は「歌う宣教師」として、サレジオ会初代日本管区長のチマッティ神父と共に日本各地を回り宣教活動を行っていた。1947年にサレジオ会が碑文谷に土地を購入した翌年から、彼は木造の簡素な建物に最初の住人となり、1948年に碑文谷で最初のミサを執り行なった。そして、1952年から大聖堂の建築が開始され、前述したように1954年に完成して、なんと私が生まれた5月29日に大聖堂で1300人が参列して、チマッティ神父によって初のミサが行われた。先日書いた日記で私が生まれた日は何もなかった、と書いてしまったが非常に身近なところで意外な出来事があった。

ダルフィオール神父は幼稚園開設以降、一環して園長として子供たちにも親しまれてきた。おそらく入園した園児を毎年抱き上げていたに違いない。というよりも、神父はいつも誰かを抱き上げていた印象がある。私ももちろん抱き上げられたに違いない。そんな子供にいつも優しい神父だが、名テナーぶりはもちろん戦後も健在で、音楽をこよなく愛し続け、晩年まで声楽の指導を行っていた。また有名オペラ歌手がイタリアに音楽留学する際には紹介の労をとったという。ただ、私は幼稚園児のときの神父しか知らないので、その歌声を聞いたことはあるのだろうが、残念ながら記憶にない。

ダルフィオール神父は2001年6月19日に腎不全のため教会内修道院で帰天した。しかし、彼は今でもサレジオ幼稚園に通った者にとって忘れられない存在である。そして、戦後の目黒区史に名をとどめるべき人で、人々に大きな影響を与え、社会貢献した人であった。私にとっては間違いなく最初に接した外国人であり、始めて異文化を教えてくれた人でもある。

※写真は現在のサレジオ教会と1960年頃のダルフィオール神父

サレジオ教会のHP
http://home.m06.itscom.net/salesio/

月曜日, 6月 25, 2007

名演奏だったN響&清水和音のラフマニノフ・ピアノ協奏曲第3番

一昨日(23日)NHKホールでのN響第1596回定期公演に行ってきました。指揮は来週の定期公演でN響音楽監督を退任するウラディーミル・アシュケナージ。ピアノは清水和音。清水は1981年に弱冠20歳でパリのロン=ティボー国際コンクール・ピアノ部門で優勝。翌年にはN響と初共演するなど、20年以上にわたって国内外で活躍している日本を代表するピアニストのひとり。

演目
ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第3番ニ短調
チャイコフスキー/交響曲「マンフレッド」

この日のNHKホールは普段の高齢者だらけの定期公演とは違い、若い女性の実に多いこと。土曜にもかかわらず制服姿の女子高生までいる。さすがラフマニノフである。もちろん私のお目当てもラフマニノフだが、とりわけアシュケナージの指揮にあった。というのも、アシュケナージはラフマニノフのピアノ協奏曲作品集を出しているピアニストであり、当代随一ラフマニノフを熟知している音楽家であると思っているからである。そのアシュケナージがピアノを弾くのでないにしろ、どう指揮するのかを期待しないわけにはいかない。

第1楽章。冒頭のソナタの部分は清水は蚊の鳴くような弱音から始める。か弱い音が観客の息を止めて、場内には一瞬にして張りつめた緊張感が漂う。その音色は甘美でない。耽美でもない。少し機械的な音にすら感じる。しかし、指揮のアシュケナージは全く動じない。ファゴットやクラリネットの音色を優しく導いてピアノ音色を引き立ていくようにする。そして、ロシア正教会の聖歌から採られとされる主旋律のピアノのソロに入ると、清水のピアノは奏でる、響く、そして歌う。いや〜、ラフマニノフです。超絶技巧もなんのその、ピアノの優しい音色が無味乾燥としたNHKホールに花の香りを漂わせるように鳴り響いていく。観客は完全にラフマニノフの世界にうっとりだ。私の前に座っているお姉さんはすでにハンカチで目頭を抑えている。

第2楽章。ここは間奏曲だ。ピアノの腕の見せどころである。清水は哀愁たっぷりに、そしてロマンティックにラフマニノフの世界を奏でる。

第3楽章。冒頭の行進曲風の旋律では清水が奏でる音は繊細であるが少し力強すぎるきらいがある。しかし、アシュケナージはここでもビクともせずオーケストラをコントロールして、清水を少し抑えていく。しかし、クライマックスでは今度は馬のたずなを弛めるではないが、アシュケナージは清水に思いっきり弾かせる。二人の呼吸が完全に合っている。清水もアシュケナージにサインを送るかのようにピアノを返していく。凄い凄い。ちょっと興奮してくる。アシュケナージの指揮を期待したかいがあった。目論みが当たった。私の涙腺もゆるんできてしまう。

また、あまり期待していなかったチャイコフスキーの交響曲『マンフレッド』も良かった。失礼な言い方かもしれないが、普段はあまり感心しないトランペットやトロンボーンなどが特に良かった。夏の吹奏楽が楽しみになった。

終演後、若い女性が舞台下に駈けよってアシュケナージにプレゼントを渡した。芝居などではよく見かける光景だが、N響のコンサートでは初めて目にした。アシュケナージの指揮を揶揄したり快く思わない人はかなりいるが、私はプレゼントをもらって軽く投げキッスをするお茶目で愛嬌のあるアシュケナージが結構好きだ。指揮者としての力量は別にしても、彼はこの3年間にN響に大きな刺激を与えたと思う。3年間でチャイコフスキーの交響曲をすべて指揮したが、今思えばラフマニノフの交響曲と協奏曲もすべて指揮して欲しかった。

話は少しずれるが、私はこれまでDVDの録画再生機をもっていなかった。2〜3週間前から買おうか買うまいか迷っていた。しかし、昨日の演奏会を聴いているうちに、買おうと120%決心した。それはこの演奏が近々BSおよびハイビジョンで放送されるのだから、それを録画して再度聴いてみたいと思ったからである。こんな衝動にかられるぐらいだから、間違いなく名演奏会であった。そしてもうひとつ余談だが、ちょっと興奮した私は家路につく前に下北沢の友人の店で一杯、そして、地元の学芸大学のお店で一杯飲んでしまった。こんなことも久しぶりである。

日曜日, 6月 24, 2007

お気に入りは箱根富士屋ホテル花御殿

バブルという時代があった。基本的に80年代半ばから90年代前半、詳しくいえば1986年12月から1991年2月までの4年3ヶ月間というのが通説になっている。ただ、私が仕事をしている出版界は94年までは売り上げが落ちておらず、その恩恵を他の人たちより長く受けていた。

そんな80年代後半から90年代半ばにかけてのバブル時代に、私はよく「一人缶詰め」と称して、ホテルを利用していた。「一人缶詰め」と言っても、私は編集者だったので原稿を書くわけではない。企画を考え、それを整理して企画書にするだけのことである。そんなことをするのに、なんでホテルの部屋が必要なのかというと、自分の仕事場ではなかなか思い浮かばないアイデアを捻出することや発想転換を図るためである。仕事場には数多くの資料も揃っていて、仕事はしやすい。しかしながら、常に同じような場所にいると発想が貧困になってしまう。こうしたマンネリからの脱出をはかるために、ホテルの一室に入って「ああでもない、こうでもない」と無い知恵を絞りだしていた。

利用するホテルは大概は友人が務めている新宿か赤坂にあるシティホテルだったが、一番のお気に入りは箱根富士屋ホテルの花御殿だった。年に1回ぐらいしか利用できなかったが、ここへ行くと、なぜか仕事がめちゃくちゃに進んだ。

花御殿は1936年(昭和11年)に建てられた、外観に千鳥破風の屋根を持つ校倉造りの建築物。箱根富士屋ホテルの象徴的な建築物でもあり、登録有形文化財にも指定されている。花御殿の名前の由来は全43室に花の名前が付けられていて、客室のドア、カギなど、細部に花のモチーフが使用されている。海外では「フラワーパレス」の名で通り、チャールズ・チャップリンやジョンレノンをなど数多く外国人が泊まっていて、その写真やサインはホテル内の資料室に展示されている。

それでは、なぜここが私のお気に入りだったかというと、第一に天井が高くて部屋が広いこと、第二に部屋に大きな机があること、第三にホテル内に散策するところがいっぱいあること、などからである。天井が高くて部屋が広いということは、アイデアを練るときには非常にありがたい。解放感に満ちた空間にいると、不思議と普段では考えつかないアイデアが出たりする。大きな机というのも便利なものである。自分の仕事場の机は大きくても常に物で散らかっている。しかし、何もない大きな机があると、一から仕事が出来るような不思議な錯覚に陥り、これまた不思議とアイデアが浮かんだりする。そして、ホテル内の散策はアイデアに行き詰まったときのちょっとした気分転換になる。

こうした理由から富士屋ホテル花御殿の部屋を利用していたが、今考えれば、やはり“バブル”だったような気もする。それでも、ここで考えた企画が単行本や雑誌の特集になったりしたのだから、一概に“バブル”だけではなかったかもしれない。

http://www.fujiyahotel.jp/stay/room_flower.html

日曜日, 6月 17, 2007

私はゴルフをやりません

たまに友人から「なんでゴルフをやらないの」と聞かれる。また、多くの人から「今度、ゴルフでもやりましょう」と誘われる。しかしながら、私はプレイするつもりは全くない。

ゴルフという競技は正直おもしろいと思う。私も学生時代に友人たちに誘われて、2度ほどコースを回ったことがあります。アメリカでは初心者でもいきなりコースに出されます。で、カリフォルニアの暑い太陽の下で、アップダウンのコースを回され、へとへとになりました。どうも私はそのときの苦行がトラウマになって、それ以降ゴルフをしなくなりました。でも、プロゴルフをテレビで見たりはします。

その昔タモリが「あんな耳かきのデカイ棒を振りますのがどこがおもしろいの?」とゴルフを毛嫌いしていた。ところが、やってみるとハマってしまい、おかげで数多くの友人を失い信用を失ったという。まあ、当然の結果です。私もこのときからタモリが好きではなくなりました。私はこうしたゴルフ自慢や吹聴する人が嫌いなのである。

ゴルフをやらない理由は前述したように学生時代のトラウマのせいもありますが、やはり最大の理由は日本ではゴルフは自然破壊の競技としか受け取れないからです。東京から福岡に向う飛行機に乗ると富士山の少し北側上空を通過します。そのときに窓から下を見てみてください。富士山の裾野にどれだけのゴルフ場があるか数えてみてください。また、成田空港近辺にどれだけのゴルフ場があることかご存知でしょうか。まあ、飛行機に乗らなくても国土地理院の地図でもわかるのでしょうが。

私自身が全く自然破壊をしていないかと言えば、答えは間接的にはしていると思います。ただ、直接的に自然破壊をしていることに対してはノーと言えるようでいたいです。偽善的かもしれませんが、こうした理由から私はゴルフをやりません。かといって、この考え方を他人に押し付けたりはいっさいしません。ゴルフをプレイするかしないかは、要はその人次第なのですから。ただ、数多くのゴルフ場が自然破壊をして、生態系に悪影響を及ぼして作られたということだけはやはり知っておいてもらいたいです。

金曜日, 6月 15, 2007

梅雨入り即梅雨明け?

気象庁は昨日、関東甲信地方が梅雨入りしたとみられると発表した。平年より6日、昨年より5日遅く、1951年以降の統計では9番目に遅かったそうだ。

しかし、今日は夏の青空が広がり快晴の天気。日差しはめちゃくちゃに強く、梅雨入り即梅雨明け?と言いたくなってしまう。

ところで、どうして気象庁がわざわざ梅雨入り宣言するのだろうか。これに対して気象庁の見解は「雨の季節なので大雨に備えてください」という防災的な意味あいから行っているようである。確かにこれが表向きの見解であろうが、実態は違うと思う。

今日では、いろいろな梅雨向けの商品がある。こうした商品を売るためにも、業者は気象庁の“お墨付き”が欲しいのである。コンビニなんかでも、普段は6本単位での入荷だったビニール傘が、梅雨入りとなると1箱(24本)単位の入荷に変わったりするそうだ。こうしたことは、食品とか衣料品のなかにもあるに違いない。いずれにしろ、梅雨入り宣言というのは、日本のお上依存というか、お上の“お墨付き”に弱い体質の表れである。

ちなみに、気象庁による梅雨入り宣言というのは1986年から開始されたものだが、昭和30年代初めには「お知らせ」という形ですでに発表されている。

木曜日, 6月 14, 2007

NHK交響楽団 東京文化会館6月公演

昨日(13日)東京文化会館でのN響東京文化会館6月公演に行ってきました。指揮は今月いっぱでN響音楽監督を退任するウラディーミル・アシュケナージ。チェロは今回が日本初お目見えのデーヴィッド・コーエン。

演目(※はアンコール曲)
デュカス/交響詩『魔法使いの弟子』
チャイコフスキー/ロココ風の主題による変奏曲
※バッハ/無伴奏チョロ組曲 ?
ルーセル/バレエ組曲『バッカスとアリアーヌ』第2番
ストラヴィンスキー/バレエ組曲「火の鳥」

今回のお目当てはチャイコフスキーのチェロ変奏曲。ソロは弱冠22歳にしてフィルハーモニー管弦楽団の首席チェリストに就任したデーヴィッド・コーエン(現在は27歳)。そして、アシュケナージによるバレエ組曲『火の鳥』。私はバレエ好きでもあるのですが、バレエ音楽のなかでもこの曲はお気に入りのひとつです。幻惑的というか幻想的でドラマティックだからであろう。

さて、デーヴィッド・コーエンによる『ロココ風の主題による変奏曲』だが、この曲を聴くのはおそらく始めて。ちょっと難解でテクニックがいる感じの作品。童顔で子供っぱいマスクのコーエンはそんな曲を目茶苦茶に甘く奏でる。その甘さはお菓子のような甘さではなく、マンゴーとか果物に入っている糖分のような甘さだ。彼はとにかく素直で、汚れを知らないような純粋な音色を奏でる。そして、これがとにかく甘い。私にはちょっと勘弁したくなるほどだが、もちろんテクニックも凄腕なので、この音色にうっとりしてしまう女性もいるに違いない。今日、ロストロボービッチのような世界をまたにかけるチェリストは少なくなったが、彼にはその素質が少し見え隠れした。今後がちょっと気になる人であった。

さて、休憩時間を挟んでルーセルの『バッカスとアリアーヌ』第2番。この曲は間違いなく始めて聴いた。この『バッカスとアリアーヌ』第2番はバレエ公演(初演は1931年)は成功しなかったのに、音楽の方が残ったという希有な作品とのこと。そして、第1幕を第1番、第2幕を第2番として演奏会用組曲として演奏され続けているそうだ。で、この音楽はめちゃくちゃにいい。詳しい音楽形式はよく解らないが、メロディ、リズム、テンポすべてが洗練されていて、とてもパワフルでエネルギッシュ。正直、バレエ音楽という感じはしない。色彩美豊かな音色がいくつも重なりあう交響曲の様相。始めて聴いたということもあり、ちょっとお得な気分になってしまった。アシュケナージもノリノリで指揮をしていて、最後には指揮台の手すりに寄り掛かり「ああ、楽しかった」というおどけた表情を見せたのが印象的だった。

そして、メインディッシュの『火の鳥』。この曲はオリジナルのバレエ音楽と、3種類の組曲(1911年版、1919年版、1945年版)があり、今回はもっともポピュラーな1919年版の演奏。アシュケナージはこのバレエの名曲を、それこそ炎のように奏でようと試みるが、どうもオケはそれについていけない。というのも、今回の木管と金管メンバーの半分近くがN響メンバーのようでなかっただろうか。それとも前曲の『バッカスとアリアーヌ』でエネルギーを使い果たしてしまったからだろうか。もちろん私が求めている幻想的な音色もどこからも聞えてこない。う〜ん、完全に空回りしている。こうなると、指揮者とオケの関係はミスマッチになって音が噛み合わず分散してしまう。とういうわけで、終演後のアシュケナージの顔は先程と違って「ああ、疲れた」という感じだった。

途中までは気分よく過ごせていたのに、最後の最後で消化不良の演奏会になってしまった。残念。

月曜日, 6月 11, 2007

飲み屋の温泉旅行

行きつけの飲み屋の常連客、私を含めて10人(男6人女4人)と店主夫妻計12人で、長野県の渋温泉に1泊2日の旅行に行ってきました。この温泉旅行は今年で4年目になる。最初は伊東温泉、2回目は草津温泉、昨年は別所温泉だった。そして、2回目以降は私が幹事役なのである。それは私が旅行に関してある意味プロだからなのであろうが、毎年うるさい客ばかりで思いやられいる。なので私は旅行前に「うるさい幹事ですから」と念を押しています。そうでないと、私はこのメンバーのなかではまだまだ若輩者で、旅先で勝手な行動をされてしまうからだ。

私がこの飲み屋に行くようになって10年近くなる。最初はおかみさんが作る手料理や新鮮な魚目当てに飲みにいっていたが、そのうち常連客同士のバカな会話も楽しみのひとつになっていった。このお店には夜な夜なユニークな客がやってくる。その平均年齢は60歳近くになる。得体の知れないサラリーマンや得体の知れない夫妻から、いつも忙しいと言っている大学教授や議員秘書までかなり個性に富んでいる。そんな客らと野球やサッカーなどスポーツの話、目黒区から国会までの政治談義、はたまたクラシック音楽やバレエなどの芸術批評など、話題は事欠かず飲みながら好き勝手な話をしている。私のような人間にとって、ストレス発散にもってのこいの店である。

そんな常連客と店主夫妻で当初は近くの碑文谷公園で花見を行っていたが、それが温泉旅行に行くようになってしまったのである。

さて、旅行の話であるが、いや〜〜、それは飲み屋の常連客ですから、飲めや歌えやの宴会で、結局はそれぞれがああしようこうしよう、と好き勝手いい放題であった。唯一の救いは宴会の最後に聞いた声楽の先生(この人も大学教授)のカラオケ伴奏による『もののけ姫』の歌だった。ソプラノの歌声がなんと心地よかったことか。これにはさすがに“もののけ”どもも心を洗われたようであった。

木曜日, 6月 07, 2007

花粉症の人は読まないでください

タイトルにも書きましたが、花粉症の方はこのあとの文章を読むと不快になると思いますので、これ以降の文章を読むことはお辞めください。なお、読んで不快になっても、私にはいっさい責任がありませんので、その旨をご承知ください。

さて、暦は入梅(6月11日)近くになり、町中を歩く人の服装はすっかり夏モードとなったのに、未だに町中でマスクしている人を多く見かける。正直、私は町中でマスク姿の人を見かけるのが好きではありません。ましてや電車や劇場などの密閉された空間で見ると嫌悪感すら抱くことがあります。

マスクする人にはそれなりの事情がある。花粉症だったり、風邪をひいているからだろう。また、昨今は麻疹予防の人もいるだろう。しかし、健康な人からすれば、マスクは病院などを除いては、不健康の象徴のようなもので、私のように不快に感じる人が多いはずだ。

そもそも花粉症なんていう病気は現代病の最たるもので、「私、花粉症なんです」などと自慢する馬鹿者がいたりもする。花粉症になる原因のひとつは免疫力や抵抗力がないことにあります。子供の頃に外で遊んでいないとか、大人になっても密閉された部屋に閉じこもり気味だとか、健康的な生活を送っていない人たちがなる病気なのだ。私が子供の頃には花粉症なんてものはなかった。また、私と同年代の友人には花粉症などというヤワなことを言うヤツは一人もいません。みんな、昔は外で遊んでいたので抵抗力がついているのである。

それにしても、本当にマスク姿の人が多いのには驚かざるをえない。いったいいつから日本人はこんなにひ弱な民族になってしまったのであろうか。情けない・・・・。

水曜日, 6月 06, 2007

選挙違反ポスターのある店には入らない

公職選挙法というザル法がある。そのなかで、私がもっとも違法行為だと思うのが、政党による“政党活動の一環”という名のもとの「時局演説会」という名の“選挙違反ポスター”である。これがなぜ“選挙違反ポスター”と言ってはばからないのは、こうしたポスターは政党には許されていても、無所属および一般人には許されないのである。法の下に平等でないのだ。明らかに憲法違反なのである。こんな法律(公職選挙法)がまかり通っていることが信じられない。

よって、私は「時局演説会」という名の“選挙違反ポスター”が店頭に貼ってある店には絶対に入らない。例えば、自民党総裁が写っているポスターが貼ってある蕎麦屋、公明党の参議院選挙東京地方区立候補者が写っているポスターが貼ってあるラーメン屋、共産党の政治スローガンが書いてあるポスターが貼ってある中華店などを見かけたが、こうした店には絶対に入らない。たとえそのお店が美味しかろうが食べにいかない。

それにしても、いくら店主がその政党の支持者だからとしても、こうしたポスターが貼ってあったらお客がひくのを解らないのだろうか。こうした店は繁盛することはありえない。いくらその店舗が自分の持ち物だとしても、お客の入りが悪くなり繁盛しなくなることが解らないのだろうか。まあ、こうしたお店はそもそも繁盛していないのだが、それにしても商売人としては失格である。

月曜日, 6月 04, 2007

碑文谷ダイエーの知られざる過去

ダイエー碑文谷店(碑文谷ダイエー)は全国のダイエーのなかでも最大規模店のひとつで、売り上げも常時トップに入る関東における旗艦店である。しかし、この碑文谷ダイエーの昔を知っている人は地元の人でも少なくなっている。

昭和30年代、現在の碑文谷ダイエーの敷地には、流し台やシステムキッチンで有名なサンウェーブの工場があった。かなり大きな工場で若い労働者がいっぱい働いていて、昼休みになると外で男女の若者が作業着姿でバレーボールをしていたことをよく憶えている。昼休みのああした光景は今でも地方の工場などにあるのだろうか。

しかし、サンウェーブも高度経済成長が一服した1964年(昭和39年)に倒産して、この工場を手放さざるを得なかった。その後しばらくここは更地だったが、60年代後半のボウリング・ブームで大儲けしたトーヨーボールの横井英樹がここを買った。そして、横井はここに都立大学にあったトーヨーボールの3倍以上の200レーンある日本一のボウリング場を作ろうとした。ところが、建設途中にボウリング・ブームは下火になり、彼は当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった中内功率いるダイエーに建物を貸すことにした。中内も東京に旗艦店を作りたかったので、二人の思惑は一致した。碑文谷ダイエーを知っている人ならば、エスカレーターやエレベーターの位置、天井の形状や高さを考えれば、ここがボウリング場を作るはずだったことがよく分かるはずである。

そして、碑文谷ダイエーは1970年代の半ば(1975年?)にオープンした。今年でオープン20年余りになり、町のシンボルのような存在になっている。

あと、余談になるが碑文谷ダイエーのとなりに高く聳えて立つのはマンションのキャッスル共進。おそらく築35年ぐらいになるマンションだが、間取りは広く構造もしっかりしているので今でも人気がある。ちなみに、ここは共進自動車というタクシー会社だった。そして、目黒通りを挟んだ反対側の現在LPガス給油所になったところには旭自動車というタクシー会社があった。目黒区には今でも数多くのタクシー会社があるが、昔はもっといっぱいあった。

金曜日, 6月 01, 2007

毎月1日は緊急警報放送の日

緊急警報放送というものがある。

緊急警報放送とは、緊急警報放送対応受信機を自動的に作動させるために、放送局が緊急警報信号を発信する放送である。NHKが毎月1日の正午前に試験放送を行っている。一部の民放でも試験放送が行われているが、全国的にはまだまだ少ない。

では、実際にこの緊急警報放送が何度行われたかというと、過去に17回ある。最近では今年の1月13日の千島列島沖地震のときに放送されている。一番最初に行われたのは1987年3月18日の宮崎県沖地震だった。

そして、4回目にあたる1993年7月12日の北海道南西沖地震のときに私は実際の信号音を初めて耳にした。そのとき、私は仕事でインドネシアのロンボク島にいて、夜に短波ラジオでNHK国際放送を聞いていたら、いきなりピロロピロ、ピロロピロロという音がし始めた。そして、切羽つまった声でアナウンサーが「北海道の太平洋沿岸に津波警報が発令されました」という放送をはじめた。

http://library.skr.jp/19930712_nanseioki.htm
(そのときの緊迫した放送が聞けます)

しかしながら、ご存知のように震源に近い奥尻島には大津波が押し寄せ230人の死者行方不明者を出す大惨事になってしまった。結局、この放送は間に合わなかったようだ。地震発生は22時17分、津波到達はそのわずか3分後の22時20分ごろ、札幌管区気象台が津波警報を発したのは22時22分だった。それでは、この放送が無駄だったのかというと、そうではない。このときの放送をきっかけに数多くの人が緊急警戒放送のことを認識するようになった。特に沿岸地域に住む人が大きな関心をもつようになった。

今日は6月1日である。先程NHKでは試験信号発信の放送が行われた。いずれ携帯電話で地震警戒メールが受信できる時代がくる。そのせいか、都会に住む人にとってはこの試験放送に違和感を感じる人も多いかもしれないが、沿岸に住む人にとってはまだまだ大切な放送である。