月曜日, 2月 25, 2019

10年目の「如月の三枚看板 喬太郎 + 文蔵 + 扇辰」

先週の水曜(20日)は銀座ブロッサムで開かれた「如月の三枚看板 喬太郎 + 文蔵 + 扇辰」を聞いてきた。この会も今年で10年目。チケットは完売。

橘家門朗  『道灌』
柳家喬太郎 『次郎長外伝・小政の生い立ち』
入船亭扇辰 『一眼国』
 〜 仲入り 〜
橘家文蔵  『ねずみ穴』

開口一番の橘家門朗は橘家文蔵の弟子。滑舌もしっかりしているし、背筋もピンと張っていて話しっぷりも堂にいっている。しかし、登場するや否やマクラもなく自分の芸名すら名乗らず話し出すとはちと如何なものか。

柳家喬太郎の「小政の生い立ち」は講談ネタ。お伊勢参りの帰りに立ち寄った浜松で、次郎長と森の石松が後に小政となる子供の政吉に出会った時のエピソード。次郎長が「我々は『商売往来』にも載っていない稼業だ」というと政吉が「噺家」と答えたり、「清水は春風亭昇太の生まれたところがいけない」など軽いチャチャを入れながら、ほんの15分程度だが次郎長と政吉の話をじっくりと進めていく。なんか続編も聞きたくなるような話だった。

入船亭扇辰の『一眼国』は見世物小屋の香具師が珍しいものを探しに旅に出て、一つ目の少女を見つけて喜ぶがそこは一つ目ばかりの世界。江戸時代の見世物小屋のインチキさ加減を風刺したお話。

橘家文蔵は羽織をつけず登場。踊りでも披露するのかと思ったら、大ネタの『鼠穴』をスタートさせる。『鼠穴』は三文の元手から10年で大きな身代を築いた男の話。6代目三遊亭圓生、立川談志、柳家小三治らが得意としている。文左衛門から3代目文蔵を襲名して2年半。もはや強面の文左衛門でなくすっかりその名跡に恥じない実力の持ち主。あっぱれである。

ただ最後に苦言を一言。今回の終演時間は予定より10分早い20時50分。10年目の節目の年を期待していた客には少しあっさりしすぎていた。

水曜日, 2月 13, 2019

安藤広重と歌川広重は二刀流?

子供の頃『東海道五十三次』の作者は安藤広重と覚えていた。それがいつの頃からか安藤広重という名は使われなくなり、作者は歌川広重と言われるようになった。もちろん安藤広重と歌川広重は同一人物である。では、なぜ安藤広重が歌川広重になったのかをちょっと調べてみた。

広重は江戸の八代洲河岸の定火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として生まれた。下級武士である。広重は幼名を徳太郎といい、のちに重右衛門、鉄蔵また徳兵衛とも名乗った。つまり彼の本名は安藤徳太郎もしくは安藤重右衛門である。そんな男が1809年(文化6年)2月に数え13歳で火消同心職を継いだ。ところが、15歳の時に歌川豊広に入門して広重という名を与えられた。それから、広重は1832年(天保3年)、嫡子仲次郎が元服したのを機に同心職を譲り、絵師に専念するようになった。つまり、それまで広重は絵師と同心の二足のわらじを履いていたというか、二刀流だったようである。

どうやらこうしたことによって安藤という本名と広重という雅号が一緒になって安藤広重という名が伝わったようである。ただ広重自身は絵の世界で生涯「安藤広重」と自ら名乗ったことはなかったようである。いずれにしろ、広重が武士であったことから、その名が明治・大正・昭和と受けつかがれていき、安藤広重と歌川広重が混在するようになってしまったようである。そして、それを避けるために2017年02月15日の文部科学省の「次期学習指導要領等の改訂案」で雅号である「歌川広重」に統一され、「安藤広重」という名は教科書等から消えていった。

しかしである。なんで安藤広重という名を無くしたのであろうか。安藤広重という名があったからこそ、彼が武士であり浮世絵師であったこともわかるのに・・・。まあこれからは『東海道五十三次』の作者は歌川広重と覚えられるようだが、私からすれば別名も覚えておいてほしい。ただ、葛飾北斎のいくつあるか分からない別名を覚えろとは言わないが・・・。(笑)


火曜日, 2月 12, 2019

ガリ版切り

先日あるところで「昔は字が上手かったんだよ。なにぶんガリ版切りをしていたから」と言ったら、周囲の目がみんなキョトンとしていた。それもそうである、みんなガリ版を知らないのである。
 
ガリ版(謄写版)はコピーがまだ普及していない時代(1980年ごろ?)までの簡易印刷だった。学校ではテスト用紙はむろんのこと家庭への通知状などはみんなガリ版で刷られていた。また、映画や演劇の台本、サークル活動的な同人誌なども同様にガリ版によって刷られ製本されていた。

印刷の元となる蝋原紙は「ロウ紙」と言われ、そのロウ紙をヤスリ版の上に乗せて、鉄筆でガリガリ原稿を書くことを「ガリ切り」もしくは「ガリ版切り」と言った。でも、なぜ「ガリ切り」と言ったのかが不思議だ。切ってしまったら原紙が元も子も無くなってしまう。正確には「切る」でなく「削る」だと思うが・・・。

ガリ切りは通常字を書くのが上手い者が行ったり、絵心のある者が行っていた。学校の先生の中には「ガリ切り名人」と呼ばれる人がいたりもした。私が初めてガリ切りをしたのは小学校の時だったと思うが、なぜガリ切りをさせられたかといえば、字体が四角ばっていたからだろう。角ばった字体の方がロウ紙のマス目に書きやすくかつまた読みやすく印刷されたからだろう。

それゆえに、小学校、中学校の生徒会報などは随分とガリ切りをしたような記憶がある。ところが、高校に入るとクラスにFというガリ切り名人がいて、彼はタテカンからガリ切りまで書くモノをほとんど請け負っていた。また、私は新聞部に所属したこともあり、ガリ版からオフセット印刷をするようになったために、1970年にはガリ切りを卒業してしまった。

そして、時代は流れ、アメリカではタイプライターを使い、帰国してからもすぐにワープロやパソコンを使うことようになり、手書きはほとんどしなくなってしまい、私の字体はどんどん退化していった。ただ、最後に負けずらいのことを書くようだが、私は決して字は下手ではない。(笑)

東近江市のガリ版伝承館
https://www.youtube.com/watch?v=ggkK6zE08k0