土曜日, 1月 31, 2009

京の冬の旅・美食日記(木屋町 藤や)

京都滞在初日の昼食は宿泊先である京都ホテル近くにある、木屋町「藤や」を訪れた。ここはもともと京都郊外にあった天保年間創業という老舗の料理旅館が、 20年ほど前に木屋町に引っ越して営んでいるという長い歴史をもつお店。ちなみに天保年間とは、1830年〜1843年で徳川家斉と家慶が将軍だったで時代である。

店のつくりは1階にカウンター8席、他にテーブル席があり、2階にはお座敷が3部屋あり、いずれの部屋も堀こたつ式のテーブルにして食べることもできるようになっている。

ここで私はお昼のおもてなしコース(5,000円)をいただいたのだが、先付けに始まり、刺身、煮物もの何もかもが美味しかった。なかでも初めて食べた氷魚(鮎の稚魚)をほんの少し酢付けしたものが、ちょっと苦み走った大人の舌感を刺激して、ビールに手をつけざるをえなかった。(笑)ここは旬の素材を活かしながら、京料理の王道を味わうことができるお店のようである。また、ここの女将は下記のホームページを見ていただければ解るように超がつくほどの京美人であり、大女将もこれまたちょっとした前(失礼)の京美人で、おそらく夜はこのお二人を目当ての客も多いに違いない。

余談ではあるが、私はここで中西重和さんという現在は隠居されているが京料理を50年以上作られた、京料理の重鎮とお話をする機会ができた。そのことについては後日書こうかと思っている。

木屋町 藤や
京都市木屋町三条上ル一筋目西入
075-252-1811
http://www.kyo-fujiya.co.jp/

木曜日, 1月 29, 2009

旅の朝はなぜ早起きになるのか

京都へ冬の旅に行っていた。このことについてはおいおい書くことにする。それにしても、いつもながら旅に出ると、不思議と朝早くに起きてしまう。

旅慣れているせいかもしれないが、私は新幹線や飛行機のなかでは簡単に寝ることができる。また、どんなホテルや旅館にしても寝つきは非常にいい方である。それはお酒のせいであるかもしれないが。しかし、朝はめざまし時計で設定している時間より早く起きてしまう。

今回の旅でも先斗町で深夜12時過ぎまで飲んでていて、翌日は朝8時まで寝ていても構わないのに、不思議なことに1時間以上も前に起きてしまった。年のせいだろうか。普段とは違う寝具だからだろうか。旅にでているという緊張感からであろうか。それとも、逆に余裕をもって寝るからだろうか。

考えてみれば、旅先で十二分に寝た〜という覚えが最近は全くない。その分、自宅に戻ってきた日は翌日昼近くまでぐっすりと睡眠してしまう。

木曜日, 1月 22, 2009

なにげに使っているお皿に歴史あり

毎朝、なにげに使っているお皿。ふと考えてみれば、生まれてからずっとこのお皿を使っているような・・・。ということは、もう50年以上も前のものかと、思いながら母親に聞いてみた。

「このお皿、いつごろ買ったの?」
「あら、あんた知らなかったの。このお皿、おばあさん(父方の母)が大切にしていたもので、戦争中は焼けるかもしれないと思って、地中に埋めていたものなのよ」
「・・・・・」

言葉を失ってしまった。

ということは、確実に64年以上前のもので、おそらく70〜80年前におばあさんが購入したものではないだろうか。そして、戦争中は渋谷区宇田川町(私の本籍地)にあった家の庭に埋められていたのである。

これまでなにげに使っているお皿(10枚ぐらいある)がとても貴重なものに見えてきてしまった。

そして、ネットでいろいろ検索したところ、このお皿(meito china)を作っていた名古屋製陶所は1911年(明治44年)に帝国製陶所として創立したが、後に名古屋財界の資本が入り名古屋製陶と名前を変え、大正・昭和初期はノリタケと並ぶ高級洋食器のメーカーだったようだ。しかし、戦争中(1943年)に住友金属工業が買収。終戦後は1946年鳴海製陶所として再発足、現在までその歴史を受け継いでいる。

金曜日, 1月 16, 2009

小学生のときはバス木琴担当だった

昨年末、地元に住む小学校時代の悪友たちと忘年会をやった。そのときに、その昔、音楽会で木琴を担当した3人が偶然にも会して、妙に木琴話で盛り上がってしまった。

小学校の音楽会では私はいつもなぜか打楽器担当だった。4年生のときは大太鼓、5年生と6年生はバス木琴(マリンバ)が受け持ちだった。今は小学生でも吹奏楽をするところがあるが、昔は縦笛が主体でアコーディオンやオルガンが花形だったような気がする。

5年生の時だったか、6年生の時だったか忘れてしまったが、学校の演奏会ではバス木琴を叩いていたのに、ソプラノを担当していた男のクラスが学級閉鎖になったために、目黒区の音楽会ではいきなりソプラノを叩かされた。実はこのことを、先日の木琴話で盛り上がるときまですっかり忘れていた。おそらく、私も適当に弾いていたので思いだしたくなかったのであろう。今となっては赤面である。

で、何を演奏したかといえば、映画『戦場にかける橋』のテーマソングだった「ボギー大佐のマーチ(クワイ河マーチ)」はよく覚えているが、他に何を演奏したか全く覚えていない。

写真は小学校5年生のときもの。左端がマリンバを担当していた私。ソプラノを担当していた短パン姿の男は今は髭をはやして一流建築士になっている。

水曜日, 1月 14, 2009

東京オリンピック選手村のベッドがやってきた

先日の日記にも書いたが、私の最初のベッドは東京オリンピックの選手村で使われたベッドである。この話を母親にしたら「あ〜、そうだったね」とあまり関心がない。

詳細ははっきり覚えていないが、選手村で使われた備品(ベッド、ソファ、食堂のイスなど)は、選手村閉鎖後は払い下げることが決まっていたようで、亡くなった父親がそれに申し込んでいたようである。そして、抽選の結果、私の家には私と兄のために選手村仕様のベッドが2つ来たのである。

ベッドが来た日のことはよく覚えている。当たり前の話だが、ベッドは綺麗に清掃除菌されて届いた。選手村で使われたベッドということで、少なくとも2〜3週間はどこかの国の人が利用したものだが、見た目には全く新品同様だった。ベッドソファはクリーム色と薄茶色の縦縞模様で、木製のシンプルな作りだった。初めてのベッドに興奮した私はもちろんその上で飛び跳ねていたに違いない。(笑)

結局、このベッドを小学高学年、中学・高校時代と使い、アメリカから帰国した翌年ぐらいに買い替えたような記憶がある。

かいまき布団が意外に人気とか
http://k21komatsu.blogspot.com/2008/12/blog-post_11.html

月曜日, 1月 12, 2009

大江戸八百八町、本当はいくつあったの?

江戸(東京)は八代将軍徳川吉宗が統治していた享保年間(1716年〜1735年)には、人口100万を擁する世界最大の都市であった。よく大江戸八百八町と言われるが、この時代にはすでに八百八町以上の町があり、八百八町という言葉は単に多いという意味だけで、実数を示すものではなかったことは言うまでもない。

それでは、いったい江戸にはいくつぐらいの町があったのだろうか。徳川家康が江戸に入府したとき、江戸の町数はおおよそ300ぐらいだったと言わている。その後、1662年(寛文2年)に674町、1713年(成徳3年)に933町、1745年(延享2年)に1678町となったというデータがあり、幕末には2000町以上の町が存在していたようである。

ただし、こうした八百八町の街並みがある町家地は江戸全体に占める割合は20%しかなく、残りの60%が武家地、20%が社寺地だった。つまり、華やかりし庶民文化が花咲いた大江戸は実際には非常に狭い地域にうごめいていたのである。

江戸の町人の数がはっきりするのは1721年(享保6年)のことで、その数は501,394人であった。その後は、町の数は増えるものの幕末までは人口は50万人から55万人で推移している。一方、武士の数ははっきりした数字はないものの、約60万人と言われ、江戸は当時(18世紀)世界一の都市であったことは間違いない。ちなみに、江戸時代(18世紀)の京都の人口は30万人〜35万人、大阪は35万人〜45万人で推移している。

当時の江戸とは東は亀戸、西は新宿、南は品川、北は千住あたりまでで、残念ながら私が生まれ育った目黒区碑文谷は江戸には含まれていなかった・・・。

金曜日, 1月 09, 2009

映画『K-20 怪人二十面相・伝』を観る

原作は名古屋在住の劇作家・北村想の小説。この本は1989年に出版されたのだが、当時小劇場演劇に関わっていた私はこの小説を舞台化できないかと模索したことがある。そういう意味では私にも少なからぬ縁のある映画である。

映画のストーリーは6〜7割がオリジナル脚本であるが、原作のもつテイストはうまく保っている。それでいて、冒険活劇ならでは面白さ、楽しさ、阿呆らしさを見事に取り込んでいて、十二分に見ごたえある映画になっている。老若男女、誰が見ても楽しむことができるのではないだろうか。

時は1949年、太平洋戦争に突入しなかった帝都(原作は昭和初期)。そこで暗躍する怪人二十面相騒ぎにサーカス団員の遠藤平吉(金城武)が巻き込まれ、怪人二十面相と対決していく・・・。ストーリー展開は非常に単純明快だが、テンポのいい演出、キレのいいアクション、さほど過剰になっていないVFX(映像特殊効果)などがうまくミックスされていて、上演時間137分とかなり長編なのだが飽きさせない。

出演者も金城武のセリフのまずさには目をつぶらざるをえないが、松たか子の天真爛漫なお嬢様ぶりやいかにもという仲村トオルのワンパターン演技も悪くない。そして、なんといってもこの3人の主演陣を支える國村隼の演技が光る。

この映画は主演に金城武を配していることなどから、明らかに日本だけでなく東南アジアをはじめとした海外配給を意識して作られている。それゆえに、日本国内の評価だけでなく、海外の評価を知りたいものである。もし、海外での評価が高ければ、続編もありうるかもしれない。決して100点満点の映画ではないが、満足度は90%以上はあると思う。チャンスがあれば是非とも映画館で観てもらいたい。映画は映画館で観てこそ面白い。

映画「K-20 怪人二十面相・伝」公式サイト
http://www.k-20.jp/

火曜日, 1月 06, 2009

新宿タイガー

本日(1月6日)の朝日新聞東京版(ローカル紙面)に新宿タイガーのことが書かれていた。

新宿タイガーとはタイガーマスクのお面を被り、派手な衣装と派手に装飾された自転車で、新宿の町を新聞配達する人のことである。

私が初めて新宿タイガーを見かけたのはゴールデン街で飲み始めた頃だから、もう30年近く前になる。朝まで飲みつづけてタクシーで帰ろうかと思ったときに、白いアフロヘアにタイガーマスク、マントを靡かせた人が目の前を自転車に乗って疾走していった。それが最初の遭遇だった。その後は、打ち合わせしている喫茶店や飲み屋に夕刊を届けに来てくれる姿に何度も遭遇した。

ゴールデン街のマスターの話によると、新宿タイガーは映画が大好きで読書家でもあるという話だった。そんな彼は今でも新宿の町を30年以上愛用している自転車で新聞配達を行っている。本名を原田吉郎さんといい、60歳だそうである。朝日新聞新宿東ステーション勤務。

彼は「ラブ&ピース」を信条に明るいニュースと夢を届けるために、日々新聞配達をしているという。カッコいい生き方をしている人だと思う。

日曜日, 1月 04, 2009

やはりどこかおかしい「箱根駅伝」

正月2日、3日にわたって行われた箱根駅伝は、東洋大学が往路で初優勝、復路も制して総合でも初優勝を飾った。東洋大は昨年12月に、部員が通学途中の電車内で女子高生の体を触ったとして強制わいせつ容疑で逮捕され、出場もあやぶまれていたが、往路5区(箱根の山登り)で1年生の柏原竜二が驚異的な快走をして、東洋大を初優勝に導いた。

この箱根駅伝を私も結構テレビ観戦していた(瀬古利彦の早稲田ベッタリ解説には呆れた)が、観れば観るほどこの箱根駅伝がおかしいと思わざるをえなかった。

箱根駅伝の正式名称は「東京箱根間往復大学駅伝」という。しかし、出場できる大学は関東学生陸上競技連盟に加盟している大学だけで、関西や東北などの大学は出場できない。つまり、この駅伝は「大学駅伝」と名はつくものの実態は「関東大学駅伝」というローカルな大会でしかないのである。

そんなローカルな駅伝を日本テレビは局の総力を賭けて製作、全国放送している。このことによって、結果的に地方の長距離競走の有力な人材が関東の大学に集中してしまった。これは、いくら結果論といえども、地方大学の軽視以外の何ものもでもない。そして、関東の私立大学のなかには、正月最大の大学スポーツイベントを利用して、自校の名を上げようとする大学が相ついだ。

駅伝はもともとはトラックでの長距離競技の延長線上にあったものだったと言われている。それが、今では本末転倒してしまい、駅伝重視でトラック競技軽視になってしまっている大学も少なくないという。これはトラック競技よりも駅伝(マラソンも)の方が世間的な興味が高く、テレビでの視聴率が高いという弊害からきている。

このように、矛盾が多い「箱根駅伝」はやはり改革をする必要性があるのではないだろうか。外国人(留学生)枠があるように、関東以外の他地区大学枠を設けてみてはどうだろうか。そうすれば、関西の雄である立命館大学なども出場できる。ただこうすると、また全国の大学で長距離の有望選手の取り合いになり、売名行為的大学がでてくる可能性があるが・・・。

ただし、こうした改革を行う可能性は残念ながら少ないだろう。というのも、矛盾だらけの最大の背景には、箱根駅伝の主催である関東学生陸上競技連盟と、他地区の学生陸上競技連盟、加えて日本学生陸上競技連合を含めた確執、利権&覇権争いがあるからである。

「箱根駅伝」は学生スポーツのイビツさを象徴しているような大会である。

木曜日, 1月 01, 2009

あけましておめでとうございます

北海道から九州にいたるまでの日本海側では雪模様となりましたが、それ以外のところではご来光も望めたりして穏やかな年明けとなりました。

今年のカウントダウンは、普段の日とほとんど変わらることなく、小説を読みながら過ごしました。前日のアルコール漬けが結構響き、大晦日も元旦の朝もお酒を飲むことなく、品行方正な時間を過ごしています。

今年は丑年。丑となるとどうしも牛になってしまいます。松阪牛、神戸牛、米沢牛など全国には約300のブランド牛があるそうです。昨年は氷見牛という頬っぺたが落ちそうになるぐらいとても美味しいブランド牛を食べましたが、今年もこれまで食したことがないような美味しい牛を味わってみたいと思います。(笑)

それでは、本年もよろしくお願いいたします。