火曜日, 2月 27, 2007

「のだめ」ヤマハの株価を押し上げる?

東京証券取引所1部上場のヤマハ (日本楽器)の株価が連日上場来高値を更新している。ヤマハはご存知のように世界最大の楽器メーカーであり、携帯電話用音源LSIでもシェア1位の企業である。そのヤマハの株価がこのところの株価上昇の地合の良さも手伝ってか高騰している。

これだけ上げている最大の理由は、2月7日に2007年3月期の連結経常利益が前期比16%増の410億円になりそうだと発表したことによる。また、2月21日には業務用音響機器の製造・設備設計を手がける不二音響(東京都千代田区)の全株式を取得して子会社化すると発表したことも大きかった。

さて、ヤマハがこのように好調な業績を伸ばしている最大の貢献者は「のだめ」といっても過言ではない。以前にも書いたが、現在のほとんどの小中学校にはいろいろな楽器が揃っている。その多くがヤマハ製である。こうした音楽教育は国の政策であり、すでに10数年前から始まっている。言うなれば、バブル崩壊後の日本経済低迷期、ヤマハは国策の上になりたっていた企業でしかなかった。

ところがである。その国策によって吹奏楽を奏でる学校が小学校にまで出現して、以前はスポーツに比べて日陰者扱いされていた音楽が徐々に日の当たる世界に入るようになった。そして、昨年の「のだめ」の大ヒットである。ヤマハに追い風が吹いたのである。このおかげで、子供たちが楽器を演奏したがるだけでなく、大人たちまで楽器への回帰現象を起こしたのである。各地にある「ヤマハ音楽教室」には子供ばかりでなく大人も押し寄せているという。

ドレミファソラファミレド♪ 
ソファミソファミレ♪ ソファミソファミレ♪ 
ドレミファソラファミレド♪

最近、このコマシャールを目にする機会が多くないだろうか。コマシャールは企業のバロメーターでもある。コマシャールを流せる企業は儲かっているのである。ヤマハの株価を上げるとは「のだめ」恐るべし。

月曜日, 2月 26, 2007

掲示板に名がある人たち

私の家の近くに碑文谷公園という区立公園があります。東急東横線で渋谷から学芸大学駅を過ぎたところの西側高架沿いに位置します。目黒区内で最も古い公園の一つです。ちょっと前まではボートに乗れる弁天池とその周囲に桜が囲むノンビリとした公園でしたが、隣接していた旧第一勧銀(現みずほ銀行)グラウンドを併合してからは、子供たちや公園デビューのお母さんも増えて華やかさと賑やかさも加わるようになりました。

この公園の顔ともいうべき弁天池の中央には、1848年(嘉永元年)に碑文谷村を知行としていた旗本・神谷正庸が奉納した弁財天が安置された厳島神社がありましたが、平成16年11月に何者かによって放火され完全に消失してしまいました。しかし、弁財天は碑文谷八幡宮に疎開していたため難を逃れました。その神社も近隣住民などの努力や寄付金(奉賛金)によって、昨年12月に再現されました。

先日、その再建された小さな神社に入ろうとしたのですが、その前に寄贈者掲示板があったので何気なく見たら驚いてしまった。高額寄贈者のなかに今や飛ぶ鳥を落とす勢いの売れっ子脚本家(映画監督や俳優もしている)の名があるではありませんか。税金対策かもしれないが、地元に還元しようとする心意気に少し感心した。続いて、私と小学校・中学校の同窓生の名を発見。地主の家系とはいえ、私とjavascript:void(0)同じようにしがないライターをしている男が、と思うとやっぱり地主はお金持ちなんだなと落胆してしまいました。二人も親しみのある名前があると、なぜかあとは血眼になって、他に知りあいの名前はないかと探してしまいました。(笑)

しかし、発見できたのは地元出身の自民党代議士だけ。公職選挙法に触れるかどうかはしらないが、その金額の少なさに呆れてしまった。この人も地主の家系なのだから、もっと多くてはと思うが、よ〜く考えてみれば最近奥さんが自己破産して、自宅を売却しなければならなかった人だ。少額でもごりっぱなのかもしれない・・・。

ちょっと不謹慎かもしれませんが、碑文谷公園周辺にお住まいの方、今度お時間がありましたらこの掲示板をご覧ください。5000万円の再建費のうち1000万円はまだ不足しているようなので、今からでも5000円以上寄贈すればご自分の名前が記載されるかと思います。私は地主ではないし、病み上がりでもありますので、賽銭箱に500円玉を入れるのが精一杯でした。

みなさんもお近くのこうした掲示板をたまにはご覧になってみてください。思わぬ名前を発見できるかもしれませんよ。

弁天池は鎌倉時代から戦後まで碑文谷村の貴重な灌漑用貯水池でした。また、ここが立会川の水源にもなります。江戸時代はこの一帯が将軍の鷹狩り場でもあり、この池に多くの野鴨が生息していたそうです。今でこそ別名「碑文谷池」とも呼ばれていますが、以前は土地の字名をとって「三谷(さんや)の池」と呼ばれていました。

木曜日, 2月 22, 2007

今日の給食事情

今週の週刊文春(2007年3月1日号 / 2月22日発売  定価320円)のグラビアページに「2007列島給食風景」と題して、全国各地の珍しい給食を紹介している。これを見ると、今の小中学生は贅沢なもの食べているなあと思わざるをえない。昼食代に1000円使うと「今日はリッチだったなあ」なんて思う世の親父たちから嘆きの声が聞こえてきそうだ。

火曜日, 2月 20, 2007

流氷は碧かった

流氷見学(流氷ウォッチング)というとガリンコ号のような砕氷船に乗り沖合まで出て、船の上から流氷を見るものになりつつある。しかし、その昔私が流氷見学(こんな言葉はなかった)に訪れた時はガリンコ号はなく、流氷は陸上から見るものでしかなかった。

私が流氷を見に行ったのはアメリカでの学生生活にピリオドを終えて戻ってきた月だった。帰国してボーッとしていた私は国内を旅行してみたくなり、温暖の地カリフォルニアにいた反動からか極寒の地へ行くことにした。国鉄(現JR)の北海道周遊券を利用して、2〜3週間の道北・道東をバックパッカー旅行に出た。

初めて流氷の姿を目にしたのは浜頓別(はまとんべつ)の高台からだった。その姿は沖合彼方遠方に、細長い白い島があるかのように見えた。そして、地元の人から「あと2〜3日すれば着岸するから、もう少し南の方へ行った方がいいよ」と言われた。流氷は稚内や浜頓別のような北から接岸するものでなく、網走から知床近辺に一番早く接岸することをそのとき知った。

そこで、私は今はもう廃線となってしまった興浜北線、興浜南線、湧網線と乗継ぎ、釧路から釧網本線に乗り、止別(やむべつ)という駅で降りた。駅の前には商店など何もなく、吹雪の中を私は網走で調べておいた海岸近くの民宿に宿泊した。1泊1500円という超格安の値段だった。ただし、食事はごはんとみそ汁と魚の干物だけだった。

その宿には私のように流氷を見にきたという同志社大学の女子学生が先客としていた。彼女は流氷の接岸の瞬間を見ることと、流氷の鳴く音を録りにきたと言い、今はもう見かけることはなくなってしまった大きなデンスケ(カセットテープ用の録音機)を持っていた。そして、すでに一週間もこの寒い宿に滞在していると言った。

翌日の朝、起きたら彼女は寂しそうな顔した。昨日の吹雪の間に流氷はすでに接岸していた、と言うのである。私も朝食もそこそこに吹雪がおさまった外へ出て海岸へ行ってみた。というより、どこが海岸か全然わからなかった。白い雪とも氷ともいえないデコボコが一面を敷き詰めている。そして、50メートルぐらい先には隆起した青白い塊が水平線と一緒に走っているのである。

流氷は碧いのだ。

そして、耳をすますと寒風のなかに流氷が擦りあう音というか軋む音が聞こえる。
キュッキュッ、キュッキュッ。
流氷の鳴く音だ。

私の脳裏から決して離れることのない感動的な光景だった。後にも先にも、この流氷以上に日本で大自然を体感する光景を見たことがない。今日のように暖かい冬が続くと、いつしか流氷も接岸することがなくなってしまうのだろうか。いまだに初雪が降らない東京にいると、流氷が船でしか見れなくなる時代がいつかやってくるのか、と思うと寒々する。

流氷サイト
http://www.noah.ne.jp/ice/l

日曜日, 2月 18, 2007

N響チケット発売日

今日はN響(NHK交響楽団)の4〜6月公演のチケット発売日。といっても電話での予約だけなのですが、これがつながらない。予約開始は10時からでしたが、必死で50回ぐらいかけました。といっても、オンフックとリダイヤルボタンを押しているだけなので、う〜ん、電話をかけているという感じにはならない。しかし、さすがに40回ぐらい押すと疲れます。(笑)

次にトライをしたのが11時過ぎ。今回は10回で諦めました。プープー、おなら体操じゃないんだからと嫌気が出てしまったようです。その次は12時半過ぎでした。そろそろつながるのではないかと期待して、今度は根性を出して30回ぐらい単純作業をしましたが討ち死でした。そして、やっと東京6R終了後の1時前にやっとつながった。3時間も電話に弄ばれたのである。(笑)

今度のN響4〜6月公演は普段サントリーホールで公演されているBプロが、サントリーホール改装のために行われないので、AプロもCプロも売切れる可能性がありそうなので、久しぶりにチケット争奪戦に参加した。特に6月29日と6月30日の公演では「のだめ」で有名になったベートーベン交響曲第七番が演目にあり、加えて音楽監督のウラディーミル・アシュケナージ最後の指揮かとも取りざたされているので売切れは必至だろう。

ということで、5月11日2階席、6月23日1階席、6月29日2階席を確保しました。プログラムは下記をご参照に。

http://www.nhkso.or.jp/schedule/program_1_11.shtml
http://www.nhkso.or.jp/schedule/program_3_11.shtml
それにしても、競馬をしながらチケットを取るのは大変だ。(笑)

火曜日, 2月 13, 2007

蘇れ、美しい地名よ

私が生まれ育った東京都目黒区には珍しい地名、美しい地名がいっぱいある。私が住んでいる碑文谷、私が通った小学校がある鷹番、高校があった八雲、他にも柿の木坂、大岡山、中根、平町など東京の他区にない由緒ある地名がいっぱいある。

というより、もっといっぱいあったのだが、1964〜69年の町名変更で由緒正しい町名がいくつも消えてしまった。町名変更の理由は、区役所の業務の推進と郵便局の能率化ということからであった。要は地元出身でない役人や郵便局員たちが、自分たちには馴染まない町名を、覚えやすいように無機質で味気ない地名にしたのである。

このために目黒区には上目黒、中目黒、下目黒(ここまでは元々あった町名)に加えて、目黒、中町、中央町、目黒本町、南などといった歴史にまったく関係のない地名が誕生してしまった。これでは、覚えやすいどころか混同してしまって、何のための町名変更だったのか今だによく解らない。

目黒はもともとは田道(でんどう)、中町は油面(あぶらめん)、中央町は唐ヶ崎、目黒本町は清水町、月光町、向原町という由緒ある名前があるのだ。こうした由緒ある名前は小学校や住民センターには残っていて、田道小学校、油面小学校、月光原小学校、向原小学校、田道住区センター、油面住区センター、月光原住区センター、向原住区センターがそれぞれ存在している。

地元に住んでいる人間としては、中町、中央町といった記号もしくは符牒のような地名より、歴史感生活感のある地名の方が親しめるものである。ここは思い切って、いつか地名復活をしてはもらいたいと常々考えている。懐古主義的な意味でなく、自分が住んでいる地域の歴史認識を問い直すためにも必要だと思うのだが。

土曜日, 2月 10, 2007

鈴木君枝(大杉君枝)さん、安らかに

今月2日早朝、日本テレビのアナウンサー大杉君枝(旧姓鈴木君枝)さんが自宅マンションから飛び降り自殺した。この一報を聞いたとき、私は耳を疑った。え、どうして? 自殺なんかするような人にはとても思えないのに・・・。このことについて、いつかは書かなければと思っていたのだが、私自身もショックだったので書くのを控えていた。

鈴木君枝(旧姓の方が馴染があるので)は立教大学社会学部卒業後、1987年に日本テレビ入社した。当時の日テレはフジ、TBS、テレ朝につぐ第四の放送局という不遇の時代だった。そんななかで、彼女は鷹西美佳とともに『ルンルンあさ6生情報』を担当して、午前7時前の不毛の時間帯を開拓した。

また『所さんの目がテン!』など数多くのバラエティ番組に出演して、数多くの芸能人と共演して「君枝さんと仕事をするのが一番」と言われるようになり、彼女自身もプロフィールのなかに「敬愛する立川談志師匠に『あんたはいい芸人なれるよ』といわれたこと」がこれまででもっとも感動した体験だったと書いていた。そして、自局の後輩たちから慕われるだけでなく、他局の女子アナからも「君枝ねえさんみたいなアナウンサーになりたい」と敬われていた。

鈴木君枝を死にいたらした「線維筋痛症」という難病。彼女のためにもそして他の患者さんたちのためにも、早急に原因および治療法を解明してもらいたい。

日テレの女子アナの屋台骨を作った、鈴木君枝さん。いや君枝ねえさん、天国からも愛らしい笑顔とキャラクターで下界の後輩たちを見守ってあげてください。

水曜日, 2月 07, 2007

久しぶりの病院日記

昨年12月25日に退院してから、正月休みを除いて1月は毎日、2月からは月・水・金とリハビリのために病院を訪れています。リハビリ室は病棟と違って開放的です。学校でいえば体育館みたいなところなので、病院としてはどことなく活気があります。働いている理学療法士の人たちも体育会系という感じで、仕事のノリがどことなく陽気です。患者さんたちも日々体の調子がよくなっていくので、明るく元気です。

現在の私のリハビリの工程は次のようなものです。最初はベッドに横になって肩の周囲に熱いタオルのような“ヒルドパック”を巻いて暖めます。その間に左腕を曲げたり伸ばしたりと、いわば軽い準備運動を行います。20分ほど暖めたあとに、理学療法士のお姉さんが私の左腕の上腕二頭筋、上腕三頭筋、三角筋、大胸筋などをマッサージしながらほぐしていきます。その後にゴムチューブを引っ張ったり、天井から吊られているつり輪を上げたり下げたりと筋肉の伸縮運動を行います。

リハビリを開始した当初は仰向けに寝ていても左腕は90度までしか上がらず、伸ばした腕が自分の耳につく180度まで戻るのはいつになるかと思っていました。それから、毎日自分でも左腕や肩周辺の筋肉をほぐしながら、180度になるように地道に努力していき、現在は前からも横からも腕が上がるように回復しました。

しかし、肘を曲げてひねったり伸ばしたりすると、まだまだ背筋などあちこちの筋肉に痛みが走ります。人間の筋肉というのはうまくできているというか、いろいろな繋がりがあるんだなと感心してしまいます。みなさんも普段はなにげなく動かしている腕ですが、ちょっと意識をもって腕を動かすと筋肉の繋がりが認識できるかと思います。

さて、先日看護婦さんにマンガ本(『のだめカンタービレ』全巻)を差し入れるために、久しぶりに病棟を訪ねました。行ってみてビックリしたのは、病棟をぐるっと一周してみると、どう見ても半分以上のベットが空いていて、閑古鳥(笑)が鳴いている状態でした。看護婦さんたちもなんか手持ちぶたさで、突然の来訪者である私と立ち話をしてくれる余裕があるのでした。

で、話を聞くと整形外科病棟は私のように年末までに退院しようとする人が多く、どうしても1月と2月は入院患者は少ないそうです。これが3月になると春休みを利用したりとか、年度内に手術を行いたいという人が入院してきて、12月のような賑わいになるそうです。知らなかった。次に整形病棟に入院するときは12月と3月は避けるようにします。(笑)

日曜日, 2月 04, 2007

映画『敬愛なるベートーヴェン』

ベートーヴェンと女性写譜師アンナとの師弟愛を描いた作品。最初に断っておきますが、これはフィックションでそのような史実はありません。ただ、ベートーヴェンには何人もの写譜師がいたことは事実のようです。

第一楽章
10年ぶりの交響曲第9番合唱付の初演を4日後に控えたベートーヴェン(エド・ハリス)のもとに、写譜師として音楽学校の首席学生であるアンナ(ダイアン・クルーガー)が派遣されてくる。気難しいベートーヴェンは女性であるアンナを最初は蔑視するが、次第にアンナの才能を認めていく。

第二楽章
仕事では傲慢なベートーヴェンだが、唯一の肉親である甥のカールだけは溺愛していた。しかし、カールは偉大な作曲家から愛情が疎ましかったのかバクチ好きになっていた。そして初演の日がやってきた。拍子がとれないベートーヴェンのためにアンナがプロンプターを務める。

第三楽章
第9番合唱付初演の日。会場には大公を初めて数多くの観客が訪れる。指揮台に立つベートーヴェン。アンナはオーケストラに隠れるように奈落からベートーヴェンにサインを送る。静まりかえる会場、そして、合唱付の第4楽章が始まる。スクリーンには歌声、歓声、そして恍惚の表情が交錯していく。

第四楽章
第9の完成後、ベートーヴェンは大フーガ(弦楽四重奏)を作曲するも悪評で、その後に倒れてしまう。そして、その病床でもアンナがベートーヴェンの音楽を聞き取り、口述筆記ならぬ口述写譜していく。そして、ベートーヴェンはその音楽の聞くことなく息をひきとる。

見どころはやはり第9の演奏シーン。ロンドンフィル(?)の演奏に載せて展開される演奏シーンは感動ものです。『のだめカンタービレ』のスタッフはこの演奏シーンを何度も見たんだろうなんて、馬鹿なことを考えてしまった。

さて、映画としての評価ですが、確かに第9のシーンは感動して涙が出てきてしまいました。しかし、変人であるベートーヴェンの描き方がなぜか今一つピンと来ませんでした。エド・ハリスの演技は悪くないのですが、狂気と正気、期待と不安といった相対するものの描き方が稚拙に見えてしまいました。加えて、第9演奏後のベートーヴェンが変人から凡人になってしまっていて、ベートーヴェンの凄みが消えてしまっています。人はやはり死を迎えると丸くなるのだろうか。ベートーヴェンのような変人奇人の偉人はそうであってほしくなかった・・・。

音楽映画としては最高の出来、愛憎映画としては上々の出来、偉人伝物語としては平凡な出来。そんな印象の映画でしたが、見て損はないと思いますので、機会があればご覧になってください。