火曜日, 6月 24, 2008

目黒区と宮城県角田市が友好都市に

新聞の折り込みに入って来る「めぐろ区報」(目黒区広報誌)はなるべく読むようにしている。先日入っていた6月15日号の紙面トップには、デカデカと「宮城県角田市と友好都市協定を締結しました」と書かれていた。

最初、どうして目黒区が角田市と友好都市なのだと思ってしまった。というのも、目黒区に住んでいる人ならば多くの人は知っているだろうが、角田(つのだ)は目黒区、特に碑文谷一帯の大地主一族で、なんで角田と友好都市だなのだ?と思ってしまった。そしたら、ルビに角田(かくだ)市と書かれているのではないか・・・。

紙面によると目黒区と角田(かくだ)市は昭和57年(1982年)に「目黒氏の子孫を訪ねて」ということで、目黒区民が角田市に住んでいる目黒氏の子孫を訪ねたことに始まるという。目黒氏は武蔵国目黒村出身で、室町時代に伊達氏から現在の角田市島田に領地を与えられ、住み移ったという。

今回の友好都市協定によって、目黒区と角田市は今後、教育文化、産業経済、防災などの幅広い分野で支援しあうということになった。友好都市や姉妹都市というのは、海外と結ぶことが多いのだが(目黒区は北京市崇文区と友好都市協定を結んでいる)、最近は国内の都市部と地方の友好都市関係が目立ってきている。中野区と福島県田村市、大田区と秋田県美郷町などがそのいい例である。そして、このような傾向は今後も続くように思われる。

目黒区は「目黒のさんま祭」のおかげで、さんまの水揚げ港である宮城県気仙沼市とかぼすの産地である大分県とも友好関係にあるので、今後もこうした地方自治体と友好関係をより一層すすめていってもらいたい。

月曜日, 6月 23, 2008

カリフォルニアの日本人ワイン王・長沢鼎

長沢鼎(かなえ)という名を御存じであろうか。彼は1852年(嘉永5年)に薩摩藩天文方という学者一族の家に生まれた。本名を磯永彦助という。幼少の頃より英明だった彼は藩校である開成所で学び、1865年(元治2年・慶応元年)に弱冠13歳で藩費英国留学生としてイギリスに向う。

この藩費英国留学生は15名おり、そのなかから森有礼(後の文部卿)、寺島宗則(後の外務卿)、鮫島尚信(後の駐仏公使)、吉田清成(後の駐米公使)、松村淳蔵(後の海軍中将)、畠山義成(後の東京開成学校初代校長)といった明治新政府で活躍する人物が何人も生まれた。そんななかで、長沢鼎だけは海外で数奇な人生を送った。

イギリスに渡った後、長沢は他の留学生と分かれ、単身でスコットランド・アバディーンにあるトーマス・グラバーの実家から中学校に通った。しかし、それから2年後に留学生らはアメリカ人宗教家トーマス・レーク・ハリスと会い、長沢もその教えに共感して、1867年に森、鮫島、吉田、松村、畠山と共にアメリカに渡った。

渡米後、長沢らはニューヨーク州ブロクトンにあるハリスの指導する教団コロニーで、ワイン醸造などの仕事をしながら自給自足の集団農場生活を送る。翌年、明治維新の知らせを聞くと森らは帰国したが、長沢だけがハリスのたっての希望でコロニーに残った。それから、7年後、コロニーはカリフォルニア州サンタ・ローザ(Santa Rosa)近郊に移住。ハリスはその地をファウンテン・グローブと名付けた。この頃になると、長沢はワイン作りに没頭するようになり、ファウンテン・グローブ・ワイナリーは数多くの賞を受賞して、その名は次第に有名になっていった。

1892年、長沢が40歳になったとき、ハリスがニューヨークに戻ったために、ワイナリーは長沢の手に託されることになった。その後、彼は人種差別や排日運動が吹き荒れるなかで、次々と美味しいワインを生産して、地元白人たちから「プリンス」「バロン」などと呼ばれ、一目置かれる存在となった。そして、彼は日系社会に対する貢献も忘れることなく、カリフォルニアの日系社会で「ワイン・キング長沢」の名を知らぬ者はいなかったという。

1934年(昭和9年)、長沢は生涯独身のまま82年の波乱万丈な人生を終えた。

1983年に日本を訪れたレーガン元大統領は国会演説のなかで「侍から実業家になった長沢鼎は、日米両国の友好の歴史の中で特筆すべきことである」と彼を称賛した。

金曜日, 6月 20, 2008

グリーンピース・ジャパン理事長の妻

以前、東南アジアを旅行していたときに、グリーンピースに毎年寄付をしていると自慢しているフランス人と口論をしたことがある。彼は日本の捕鯨を批判するだけで、日本における鯨の食文化や、アメリカが日本を開国させたのは捕鯨船の中継地を作りたかったという歴史認識など全く知らなかった。

日本人もそうであるだろうが、欧米人は表面上のことだけで、他国の歴史文化や慣習を批判することが非常に多い。こうした自国の文化・共通認識=他国の文化・共通認識にと押し付けようとする人たちは、原理主義者か盲目主義者でしかない。グリーンピースも似たりよったりだと思う。そして、その日本機関であるグリーンピース・ジャパンはその手先だ、売国奴と言われても仕方がないだろう。

現在のグリーンピース・ジャパン理事長は弁護士の海渡雄一で、社民党党首・福島瑞穂の事実上の夫(夫婦別姓)である。私は今回のグリーンピース・ジャパンの窃盗事件および逮捕に関して、弁護士・福島瑞穂の見解が聞きたい。

木曜日, 6月 19, 2008

戒名も酒の肴

久しぶりに以前の飲み屋仲間と飲む機会をえた。私が10年も通った店が閉じたのは今年の2月。あれから、いろいろな飲み屋を探している飲兵衛たちだが、携帯とメールをやりとりして久しぶりに集合。今回のメンバーは得体の知れない元サラリーマン、大正生まれの日本酒大好きおじいさん、某超有名女流作家専攻の大学教授、某芸術団体職員、そして私の5人である。

話題はなぜか戒名の話に・・・。

客A「戒名って、誰でも勝手につけられるんですよ」
客B「そろそろだから、考えないといけないねぇ」
客C「そういう人はシブトイんですよ」
客D「ただ、勝手につけると、坊さんは葬式には来てくれませんよ」
客E「私は無宗教だから、坊さんは必要ないです」
客A「戒名でも“院・居士”は高いんですよ」
客B「いくらぐらいするんですか」
客A「70万から100万」
客B「それは高いねぇ」
客E「私の親父のときは50万ぐらいだったと思いますが」
客C「私が戒名をつけるとしたら・・・・」
客A「酩酊院はどうですか」
客D「Cさんなら、泥酔院でしょう」
客A「酩酊院放蕩居士というのはどうでしょうか」
客B「“院・居士”は七文字でなく九文字なのでは」
客E「では、泥酔院放蕩三昧居士というのは」(笑)
客C「オイコラ、墓場まで酔っ払いにするのか!」
客A「酩酊院と泥酔院では酔っ払いの差がでますね」
客B「う〜ん、格調が違いますな」
客E「私は酩酊院女難彷徨居士がいいなぁ」
客D「女難はちょっと無理なのでは」
客C「彷徨居士は恰好つけすぎだよ」
客A「酩酊院、いいななぁ・・・」

一人、悦に入る客Aこと大学教授でした。

火曜日, 6月 17, 2008

先発投手はパリーグばかり?

北京オリンピックまであと2ケ月と迫ってきた。私がオリンピックでもっとも興味のある競技は野球である。オリンピックで野球が行われるのは、ヨーロッパ人のご都合主義によって今回が最後になり、しばらく無さそうである。残念である。

さて、今回の日本代表チームの先発投手は完全にパリーグ陣で固められるのではないだろうか。昨年のアジア予選の3本柱だったダルビッシュ有(北海道日本ハム)、成瀬善久(千葉ロッテ)、涌井秀章(埼玉西武)は今年はさほど活躍はしていないものの、キャリアとマウンド度胸を考えると外せないだろう。これに加えて、中継ぎもできる小林宏之(千葉ロッテ)も外すのは難しい。その上で、今年は絶好調の岩隈久志(東北楽天)、左腕では和田毅(福岡ソフトバンク)、杉内俊哉(福岡ソフトバンク)、帆足和幸(埼玉西武)がおり、下手投げの渡辺俊介(千葉ロッテ)も捨て難い。

一方、セリーグで先発ができそうなのは、吉見一起(中日)と岩田稔(阪神)の2人ぐらいだが余りにもキャリア不足で、結局のところ中継ぎもできる川上憲伸(中日)ぐらいしかいない。

投手陣の枠はおそらく予選同様に9人と思われる。抑えはセリーグの藤川球児(阪神)と岩瀬仁紀(中日)の二人で決まりなので、残り7人に誰を選ぶかが興味津々である。基本的に1チームから1人ということで、ダルビッシュ、成瀬、涌井、岩隈、和田となり、オリックス分を千葉ロッテの小林か渡辺にするのではないだろうか。そして、セリーグからは星野監督が使いやすい川上を入れるだろう。巨人の上原浩治の出る幕はなさそうである。

木曜日, 6月 12, 2008

たばこ増税より議員削減が先

明日(13日)、国の税収増や健康被害防止のため、たばこ価格の大幅値上げを目指す超党派議員よる「たばこと健康を考える議員連盟」が設立総会を開くという。彼らの目論みは、現在の1箱(20本入り)300円前後の価格を500円から1000円に値上げし、増収分を医療など社会保障費に充てるというものである。

しかし、この安易な発想は非常に怖い。このような発想が許されるならば、たばこの次のターゲットは酒である。その次にはガソリン、いずれは市販されている飲料水にも税金を課すかもしれない。こうした、なんでも税金を取ろうとすることよりも、まず先にやることは自分たちの身を削ることではないだろうか。議員定数削減である。国会議員をはじめとして現在日本全国には5万人以上の「議員」という肩書きをもった人がいる。そして、その5分の1ぐらいは少なくとも削減できるのではないだろうか。

「たばこと健康を考える議員連盟」より「議員を減らすことを考える議員連盟」がなぜ作れないのだろうか。まあ、無理か・・・。

それにしても、10日に行われた「たばこと健康を考える議員連盟」世話人会では、共同代表に中川秀直元幹事長(自民党)、前原誠司副代表(民主党)、北側一雄幹事長(公明党)の政界再編に含みのあるメンバーを選んでいる。「たばこと健康を考える議員連盟」=「禁煙党」になる日があるかもしれない。そうなると、これはこれで怖い。

【追記】私は10数年前に禁煙したノン・スモーカー。

水曜日, 6月 11, 2008

映画「築地魚河岸三代目」を観る

昨日(10日)、渋谷シネパレスで「築地魚河岸三代目」を観た。松竹はこの映画に総力をかけていて、「寅さん」「釣りバカ」に続くシリーズ化をしようとしている。しかし、館内はお客さんが10数人と閑散としていた。いくら午後6時15分上映の回といっても、6月7日に公開されたばかりの映画とはとても思えない。ちょっと寂しい公開第一週である。これでも明日か明後日の新聞には「大ヒット!」という文字が踊る広告が載るのであるが・・・。

で、映画の評価は「可もなく不可もなく」という映画だった。シリーズ化へのためのプロローグのような映画と言ってもいいかもしれない。

それでは、私がなぜこの映画を観に行ったかといえば、単なる酒の肴好きだからである。つまり、飲み屋へ行く前の話のネタにと思ったからである。それゆえに、この映画は私にとって「とりあえずビール」程度だった。

ということで、映画鑑賞後は予定通り、地元の飲み屋へ行った。これが正解であった。私が行ったときは綺麗なお姉さんが二人だけ。そして、私のあとに来るお客さんもこれまた綺麗なお姉さんが相次いだのである。男は私とむさ苦しい店主だけ。50過ぎのオジサンのピッチは上がり、珍しく酔いが回ってしまった。どうやら来年公開予定の「築地魚河岸三代目」第2弾も観なくてはいけないようである。

映画「築地魚河岸三代目」公式サイト
http://www.uogashi3.jp/movie/

火曜日, 6月 10, 2008

秋葉原通り魔事件と死刑制度を考える

先月上旬にジュネーブで行われた国連人権理事会のなかで、日本を対象とする「普遍的定期審査(UPR)」というのが開かれた。そのなかで日本の死刑制度、従軍慰安婦問題などが人権侵害にあたるのではないかとの指摘がヨーロッパ諸国から相次いだ。UPRというのは、国連人権理事会が国連全192加盟国の人権状況を、4年をかけて審査するという新しい制度で、今春から導入されたらしい。

この日本に対するUPRの対日審査では、42か国が発言を求め「最近、死刑執行が増加していることに強い懸念を覚える。死刑は非人道的だ」(ルクセンブルク代表)と死刑制度の廃止を迫る声が多かったという。これは昨年12月に国連総会で採択された“死刑執行停止決議”を受け入れるよう日本に求めたものでもあった。

現在、世界にある約200カ国中、死刑制度を廃止もしくは事実上廃止している国は約125カ国で、死刑制度を存続している国は約75カ国と言われている。先進国で死刑制度があるのは日本とアメリカぐらいで、ヨーロッパ諸国は廃止している。しかし、日本では国民の8割以上が死刑制度廃止に反対と言われている。

私は日本で死刑制度がなくならない根幹には「仇討ち」という歴史的背景があるからではないかと思っている。もちろん、今日では仇討ちは違法であることは言うまでもないが、時代劇では仇討ちを題材したものが多く、日本人のなかには仇討ちという概念が沁み込んでいる。そのために、仇討ちができなくとも、裁判で仇を討ってほしいという考えがある。私はこの考えを否定することはできないと思う。

現在の鳩山邦夫法務大臣による死刑執行命令の乱発には問題があるが、オウム真理教による松本および地下鉄サリン事件、神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇事件)、池田小学校児童殺傷事件、長崎市長銃撃事件、そして、今回の秋葉原通り魔事件などを考えると、日本にはやはり死刑制度を存続させざるをえないだろう。日本はヨーロッパのようなキリスト教精神と異なる国なのだから、それを日本に強要するようなヨーロッパの意見を取り入れる必要性はない。

ただ、死刑執行を限りなく少なくするためにも、また裁判員制度を円滑に進めるためにも、死刑の次が無期懲役刑でなく、終身刑(重無期刑)という刑を早急に設ける必要がある。そしてこの終身刑には囚人が70歳を越えるまでは仮釈放はできないという付帯条項を必ず入れてもらいたい。

日曜日, 6月 08, 2008

スピード社製水着は違反でしょう・・・

私はヨーロッパ人のスポーツにおけるご都合主義に辟易している。スキーのジャップで日本人がメダルをいっぱい獲得するようになると、レギュレーションを変更した。このことはF1でも同じで日本社製車が勝ちつづけると、レギュレーションを変更した。他にも何かあったように思う。

今回のスピード社製水着レーザー・レーサーをもし日本の会社が開発していたら、どうなっていただろう。ヨーロッパ人は「日本製水着はレギュレーション違反だ」とクレームをつけただろう。しかし、今回のスピード社はイギリスの会社なので、ヨーロッパからはまだクレームは起きていない。水泳大国のアメリカやオーストラリアは元々「なんでもあり」というのがレギュレーションの国なので、スピード社製水着にクレームをつけることはない。

そもそも、スエットスーツみたいな水着で水泳をすることがおかしい。これならば、手ヒレ足ヒレがついた全身スエットスーツの水着を穿いてもいいではないか。浮力をつけて泳ぐ水着など、ドーピングとなんも変わりがない。男性の場合は水着は膝から腰までモノに、女性は肩から股下までのモノという規定にしなければ、水泳という競技はおかしなものになっていくだろう。

今後、もしミズノ、アシックス、デサントの日本の会社がスピード社製を上回る高性能な水着を開発したら、ヨーロッパ人は間違いなく「日本製水着はレギュレーション違反だ」というだろう。そうなる前にスピード社製水着はレギュレーション違反だと、水泳関係者は主張するべきではないだろうか。

土曜日, 6月 07, 2008

オシムのサッカーをもう一度見てみたい

昨年11月に脳梗塞で倒れたサッカーの元日本代表監督のイビチャ・オシムが、一昨日元気な姿を見せ、記者会見した。会見のなかで彼は「日本の選手はもっと走らなければいけない。走らなければ、いいサッカーはできない」「またベンチに座りたい。しかし、ベンチで死にたくはない」などと語り、現場復帰を考えていることを示唆した。

サッカーの日本代表監督は1992年にハンス・オフトが初の外国人監督と就任してから、下記のようにヨーロッパ人3人、日本人2人、ブラジル人2人と、ほぼ均等に起用されている。

1992年ー1993年 ハンス・オフト(オランダ)
1994年      パウロ・ロベルト・ファルカン(ブラジル)
1994年ー1997年 加茂 周(日本)
1997年ー1998年 岡田武史(日本)
1998年ー2002年 フィリップ・トルシエ(フランス)
2002年ー2006年 ジーコ(ブラジル)
2006年ー2007年 イビチャ・オシム(ボスニア・ヘルツェゴビナ)
2007年ー現在   岡田武史(日本)

私はサッカーに関しては門外漢なのであるが、素人目に見ても結果的に成功したと思える監督はいるとは思えない。ただ、戦術面戦略面を考えると、ヨーロッパ人の監督の方が日本人やブラジル人監督より上手くいっている気がする。確かにジーコはネームバリューからヨーロッパや南米の強豪チームと試合をするということで戦略面ではプラスだったが、中田英寿ひとりに頼り切った戦術面はお世辞にも知的だったのはいえない。

それに比べて、オフトは「ドーハの悲劇」でワールド・カップ進出を逃したが、日本サッカーの技術力を向上させた。また、トルシエは有名でないことからジーコのように強豪チームとの対戦は少なかったが、DFの攻撃参加やFKからの変わった攻撃など新しい戦術を披露して、日本サッカーに新鮮味を与えた。そして、オシムは「考えて走るサッカー」を提唱して、新しいサッカーを築こうとした。

こうしてみると、日本サッカーにはブラジル人や日本人よりもヨーロッパ人の方がフィットしているように思える。現在の岡田武史のあとは、できればヨーロッパ人の監督であってもらいたい。

話が大きくずれてしまった。

オシムが日本代表監督に復帰することはないとしても、日本サッカーへ刺激を与えるためにも、Jリーグの監督をやってもらいたい。病気のことを考えると、遠征での指揮が難しくなるので、首都圏にあるチーム(千葉、柏、浦和、東京、川崎、横浜)しかないだろう。個人的にはフロンターレ川崎か柏レイソルあたりが面白いと思うのだが・・・。

しかし、くれぐれも健康面を留意していただきたい。

火曜日, 6月 03, 2008

誕生日に手術とは、トホホホ(後編)

5月29日午後2時20分。予定より10分前に耳鼻咽喉科診察室前の待ち合い椅子に座った。これから始まるであろう、手術を想像して、口を大きく開けて、顎の伸びがいいようにしたりする。冷静を装いつつも、やはり落ち着かなかった。

午後2時30分。定刻に看護婦さんに呼ばれて診察室に入る。まずは診察室横の部屋で、麻酔の吸入を行った。急須のようなガラス器のなかから煙がでている。それを口から吸引して鼻から出すという作業を2分30秒計4回10分間行う。このおかげで、口のなかはすっかり麻痺する。舌を指でつついても感触がない。

診察室に入ると、先生が口を開いて「ちょっと痛いかもしれないけど」と言って、口の奥の方に小さな注射を打った。おそらく麻酔だろう。しかし、全然痛くない。先ほどの麻酔が効いていたからだろう。

ここから手術開始である。診察台を少し傾けて、私は口を大きく開き、先生は口のなかを覗き込みながら長い細い棒を入れて、扁桃腺の中にある石を取り出そうとする。私は肩の力を抜きつつ、口を大きく開けつづける。先生がもつ棒が石を掴んでいる感触はわかる。しかし、なかなか取り出せない。口のなかに唾液が溜まってしまったので、それを出す。同じことをもう一度繰り返した。

「すぐそこまで見えているんだけどね〜」
「先生、頑張りましょう。私は打たれ強いから、平気ですよ」

先生はいくつかの器具を変えながら、またトライする。しかし、なかなか取り出せない。手術を始めてから10〜12分が経ち、先生の額に汗がうっすら浮かびはじめたときに、ちょっとした痛みが走った。「取れた〜。大きいなぁ」と先生は笑みを浮かべながら言って、赤黒く光る石をライトにかざして見ていた。その大きさはどう見ても4〜5ミリはあり、先生はそれを標本にするべく、小さな器にホルマリン付け(?)にした。

私はすぐに口をゆすいだが、ほとんど出血はなかった。また、痛みもさほどなかった。ただ、やはり緊張したせいか、それとも麻酔のせいか、しばらく控室にあるベッドで横になった。しばらくして、麻酔が切れてくると共に、目の前の視界がクリアになっていく感じで、口のなかにも感触ももどってきて、少しずつ痛みを覚えるようになってきた。

さて、石についですが、結石とは病原菌の墓場みたいなもののようで、その墓場にカルシウムなどが付着して塊となるようです。結石は墓場ゆえになるべく外に排出しやすい尿路や唾液線(顎下腺)にできることが多く、扁桃腺にできるのはやはり珍しいみたいです。

私は冬場に咽喉を痛めないために朝晩うがいをしていますが、これからは冬だけでなく、いつでも歯を磨いたあとはうがいをするようにするつもりでいます。もう、二度とこんな手術はしたくはありませんので。

誕生日に手術したのはもちろん初めてだが、酒抜きの誕生日も小学校以来でした。(笑)

月曜日, 6月 02, 2008

誕生日に手術とは、トホホホ(前編)

先週木曜日、実は私の誕生日だったのだが。その日にいつも行く中目黒の病院で簡単な手術をうけた。誕生日に手術とは、と思う人もいるかと思いますが、担当の先生と私の予定を擦り合わせると、この日しかなかったのです。つまり、私には誕生日にはこれといった予定がなかったのです。こんなことはこの何年も変わりませんが・・・。

ここまではどうでもいい前ふりです。

私が受けた簡易手術は「扁桃結石」の除去というものです。聞いたことがありますか、扁桃結石。私は珍しい怪我や病気になる人間ですが、今回も珍しいです。(笑)

扁桃結石とは、扁桃腺にできる結石で、別名「膿栓」とも言うようです。詳しいことはよく解らないのですが、この結石は白い膿のようなもので咳などと一緒に出るようなですが、私の場合は大きさが4〜5ミリはあろうかというもので、とても咳ででるようなものではありませんでした。

私がこの症状に気がついたのは2月に沖縄旅行へ行く少し前からです。最初は扁桃腺が腫れているだけの感じだったのですが、腫れがひいてからもいつまでたっても、のどに何かつっかえているような感覚はとれませんでした。そこでCTスキャンを撮ると、なんと喉頭の真ん中に白い影が出るではありませんか。先生が「ああ、これは石だね」といとも簡単にいうではないですか。

「扁桃線に石〜〜???」

尿路結石や胆石などは聞いたことがありますが、扁桃腺に石ができるとは初めて聞きました。そして、先生は「この石は自然に取れることがあります。それに右側にあることが見えますから、しばらく様子をみましょう」ということだった。

それから、私は咽喉にモノがつっかえたというより、咽喉にモノをもった生活をするようになったのです。石そのものは悪性でも何でもないので、普段の生活には何の支障もありません。酒は飲むし、ジムで運動はするし、ご存じようにコンサートにもいっぱい行っていました。

そして、4月13日の夜に食事をしていると、なぜかガリっと固いものを噛んだのです。大きさは2ミリ四方の固いものです。「これが石かぁ〜?」と半信半疑でした。そして、翌週の検診のときに、それを先生に見せると「これは石ですね」と言った。ああ、これで石から解放されたかと思えました。しかし、再度撮ったCTでは、石はまだ残っていました・・・。(泣)

(続く)