水曜日, 10月 31, 2007

手近な代替エネルギーはやっぱり石油

世界の原油価格の指標となるWTIの先物取引価格が1バーレル90ドルを越して、100ドルになるのも時間の問題と言われている。これはドルがユーロや円に対して連日安くなっていることが最大の理由だが、その他にもトルコやイラクなどの中東情勢の不安も材料になっている。

こうしたなかで、新聞の報道によると、11月からの石油製品の値上げをにらみ、各地の灯油販売店には冬に備えて灯油を買い込んでおこうとする人たちが相次いでいるという。埼玉のホームセンターでは、開店直後からポリタンクを持った客が次々と訪れ、この日の売り上げは前日の4倍になったという。

こうも原油高になると、すぐに石油の代替エネルギーとしてエタノール、水素ガス、太陽電池などが話題になるが、私はもっとも良い石油の代替エネルギーは石油だと思っている。その石油は石油でも油田から採れる原油ではなく、主に露天掘りされるオイルサンドである。

オイルサンドとは重質油を含んでいる砂のことであり、世界全体に約2兆バレルの埋蔵量があると推定されている。そのほとんどがカナダとベネズエラに集中してて、なかでもカナダ・アルバータ州にはサウジアラビアの原油埋蔵量に匹敵するほどオイルサンドが存在といわれてい。このことから、アルバータ州の州都エドモントンはカナダのオイル・シティと呼ばれている。

オイルサンドから1バレル(159リットル=42ガロン)の原油生産をするには、1〜2トンのオイルサンドが必要になる。そして、そのオイルサンドから砂などの成分を取り除くために生産コストが以前はかなりかかった。しかし、現在ではいくら高くても1バーレルあたり40ドル以下と見られているので、原油価格が高騰している今日では十分に採算がとれるのだから、その生産性をアップすることは可能であろう。そして、今後技術改良が進めばさらに安くなるのではないだろうか。

ただ、このオイルサンドからできる石油(ビチューメンという)は重油質なためにガソリンにはあまり向いていない。しかし、船や航空機の燃料、機械やボイラーなど産業には向いているので、その生産性を早急にあげてもらいたい。ちなみに日本の企業では鉱業会社や商社がカナダでこのオイルサンド開発に力をいれている。そして、昨今では韓国や中国の公社企業も開発に参加しているので、日本はもっと力を入れないと、もっとも手近な代替エネルギーを失いかねないと、私は懸念している。

火曜日, 10月 30, 2007

マリナーのN響ロマンティック・コンサート

昨日(29日)、サントリーホールでのNHK交響楽団による「N響ロマンティック・コンサート」を聴いてきました。指揮はサー・ネヴィル・マリナー。ヴァイオリンはN響のソロ・コンサートマスターである堀正文。

演目(※はアンコール曲)
ヴィヴァルディ/ヴァイオリン協奏曲集「四季」
※ヴィヴァルディ/ヴァイオリン協奏曲集「四季」冬の第2楽章
  〜休 憩〜
モーツァルト/交響曲第41番「ジュピター」
※モーツァルト/ディヴェルメント二長調K136第3楽章

今回もまずは余談から。最近サントリーホールへ行くたびに入場前にN響メンバーとよく遭遇する。もちろん、コンサート会場へ行くのだから遭遇するのは当たり前なのかもしれないだが、3回たて続けとはびっくりである。最初がバレンボイムのときに第一ヴァイオリンの宇根京子さん、次が先週の「Soup Stock」でのチェロの銅銀久弥さん、そして今回は地下鉄のなかから会場までほぼ一緒に歩いていた第一ヴァイオリン次席の大宮臨太郎くんである。大宮くんは今どきの若者らしく、まだ暖かいのに黒に緑のストライプの入ったマフラーをして、颯爽としていました。体型もスラッとしているので、ちょっとモデル風にも見える。それにしても、3回も続くと次は誰に出会えるのかなと楽しみになってくる。次にサントリーホールに行くのは11月7日のパリ管弦楽団である。う〜ん、池田昭子さん、来ませんかねぇ。(笑)

さて、本題である。コンサートの感想は非の打ち所がないぐらい素晴らしいものでした。しかしである。あえて苦言を呈させていただきたい。あ、また寄り道にそれそうだ・・・。

コンサートは素晴らしい。しかしである。料金が高過ぎる。最近のクラシック音楽コンサートの料金は異様に高くなっている。例えばチョン・ミョンフンが振るときの東京フィルのS席は11,000円、11月1日の西本智実が振る日本フィルもS席が10,000円である。そして、昨日のロマンティック・コンサートも演奏者は普段の半分の人数にもかかわらずS席は9000円だった。そのためか、2階のS席の半分は空席というN響コンサートとしては珍しい状態であった。この料金設定は明らかに主催者であるサントリーホールのミスであり、コンサートの内容がいくら素晴らしくても、興行的には失敗である。

「のだめ」のおかげで若者たちがクラシック音楽に足を運ぶようになったのに、それを拒むかのように高い料金を設定するクラシック業界は少しおかしいとしかいいようがない。昨日などは「ロマンティック・コンサート」と銘打つぐらいなのだから、30歳以下の人にはS席をペアで10,000円で販売するぐらいの器量はないのだろうか。N響のサントリーホールでの定期公演のチケットが手に入りくいことはわかっているのだから、今回のように若者向けのプログラムならば、音楽を好きになろうとしている若者たちにもっと求めやすい値段設定をすべきでないだろうか。業界のみなさんは一考していただきたい。


ああ、前置きが長くなりました。すみません。m(_ _)m


1曲目の『ヴィヴァルディ/ヴァイオリン協奏曲集「四季」』。実は私はこの曲を生で聴くのが初めてである。といのも、幼い頃、父親が年がら年中イ・ムジチ合奏団の『四季』をレコードで聴いていて、私のなかではトラウマのようになった音楽だったので、あえて聴くことはなかった。そのために、この曲のCDすら持っていない。

『四季』はご存じのように、春・夏・秋・冬の4つのパートに分かれていて、それぞれが3楽章でなりたっている。第1部の春は主に田園風景を、第2部の夏は暑さと嵐を、第3部の秋は実りと祭りを、第4部の冬は寒さと風を、それぞれ主題に表現している。

楽器編成は第1ヴァイオリン8人、第2ヴァイオリン6人、ヴィオラ4人、チェロ4人、コントラバス2人、そして、チェンバロ、オルガン、ソロの堀正文だった。オルガンが入っているという編成はどうも珍しいようである。

堀正文の奏でるヴァイオリンの音色は派手ではない。しかし、味がある。洗練された味がある。堀は一流のシェフが四季おりおりの季節感ある料理を作るかのように、ヴァイオリンを奏でるのだ。そして、チェンバロ(すごく上手い人だった)やチェロの藤森亮一が隠し味を加えていく。それを支配人のネヴィル・マリナーがお客であるテーブルの前に出してくれる。一度に4つの季節料理を味わえるとはなんと幸せなことであろう。音楽のなかにも風味のきいたコンソメ・スープやとろけるようなビーフ・シチューがあると実感した演奏だった。

2曲目はモーツァルトの『ジュピター』。『四季』同様にお馴染みの曲である。ここではネヴィル・マリナーが完全にシェフである。そして、それを支えるサブが篠崎史紀、永峰高志、店村眞積、藤森亮一といった4人の首席奏者たちだ。

マリナーは83歳にもかかわらず矍鑠(かくしゃく)としていて、鍋(タクト)を返す(振る)手つきも小気味いい。その姿はマスコミに多く出てくるような鉄人ではないが、隠れた名店の匠の味を出してくれる一流のシェフである。

マリナーの一番の素晴らしさはバランス感覚の良さではないだろうか。それは人によってはメリハリが効いていなくて面白くないというかもしれないが、彼はサントリーホールのなかでも自宅でCDを聴いているかのような安心感のある音を作り出すのだ。それは長年数多くの録音に携わってきたからかもしれないが、これは熟練した職人しかできない味なのである。そういう意味では彼は巨匠ではないにしろ、「匠」な人なのだ。まだまだ元気な様子なので近いうちの来日を期待したい。

土曜日, 10月 27, 2007

山火事とエゴイズム

カリフォルニア南部の山火事被害が拡大している。新聞などの報道よると、4日目を迎えた山火事は、東京都の8割りにあたる1800平方キロを焼き、まだまだ燃え続けている。これまでに民家や商業施設1500軒以上を焼失、死者は6人になり、90万人以上の住民に避難命令もしくは勧告が出されている。

カリフォルニアは山火事が多いところである。私がカリフォルニアに滞在して
いた70年代にもサンフランシスコ郊外のマウント・ダイアブロという山が10日間に渡って燃え続け、木が生い茂っていた山が禿げ山になってしまった。当時、私はフェアフィールドという町に住んでいたが、夜になると南の空が赤くなっていたことをよく覚えている。また、91年10月にはサンフランシスコ対岸のオークランドからバークレー一帯が山火事になり1日で3500軒以上の民家が焼失した。

このように、住宅街に被害をおよぼす大きな山火事は5〜10年に1回の割合であるが、小さな山火事は毎年必ずある。なぜこのような山火事が起きるかといえば、答えは単純明快である。雨が降らないで乾燥しているからだ。カリフォルニアという土地は毎年4月から10月までほとんど雨が降らない。その降らないは本当に降らないのである。一滴も降らない年もある。加えて、10月は内陸から海に向う強い風が吹く時期で、いったん火がつくとすぐに燃え広がり、手におえないのだ。だから、大きな山火事はほとんど10月に起きる。

それでは、対処策はないのかというと、ないこともないのである。人工雨を降らせればいいのである。しかし、山火事に見舞うような地域に住んでいる人のほとんどは裕福な白人家庭であって、こうした環境破壊的な対処策には批判的である。ただ、こうした地域に住むこと自体が環境破壊でもあるのだから、不条理な反対理由で身勝手でしかないと思う。

今回の山火事によって、こうした考えがどう変わるかわからないが、カリフォルニアで大きな山火事が起きるたびに、私は人間のエゴイズムを感じざるをえない。

水曜日, 10月 24, 2007

クラシック音楽を聴くようになったキッカケ

最近「どうしてクラシック音楽を聴くようになったのですか」とよく聞かれる。大概「まあ、歳をとったからでしょう」と答えているが、この答えはあながち間違いではない。

私は幼稚園の頃から小学校5年までピアノを弾いていた。といっても「バイエルン」「ツェルニー」程度で、有名な曲では「エリーゼのために」「乙女の祈り」が限界で、ショパンやシューベルトの名曲を弾くことはできませんでした。そして、小学校5年のときにクラシック音楽しか教えてくれない先生(この方は陸軍軍楽隊出身で『加藤隼戦闘隊』の作曲者の一人)に反発して、なぜかフルートを始めました。

そして、中学に入ると部活(バスケット部)が忙しくなり、先生に通うことは辞めてしまいまったが、吉田雅夫(フルートの大先生)の本を参考にしながら、独学でフルートを吹くようになりました。と同時に吹く曲はクラシックよりポップスが主体になり、ビートルズのメロディを好んで吹いていました。他にも、友人が組んでいるフォークバンドに参加させてもらったりして、それなりにフルートを楽しんでいましたが、ピアノはその頃から弾くことはなくなってしまった。

このようにクラシックを聴く土壌は小さい頃に培われていました。でも、実際にオーケストラを聴くようになったきっかけは、30代にたびたび仕事で訪れたニューヨークです。

私はガイドブックの仕事をしていたので、80年代半ばから90年代前半まで毎年取材のために、2週間から1ヶ月半ぐらいニューヨークに滞在していました。昼間は観光スポットやレストランの取材、夜はミュージカルやストレートプレイ、そしてベースボールなどのライブに毎晩のように出かけていました。今思えば「よくもまぁ」という感じです。全くバブルの時代でした。

ということで、クラシック音楽を聴きに行くのもさほど時間がかかりませんでした。カーネーギーホールやリンカーンセンターまでは定宿にしていたホテルから歩いていける距離にあり、当時はチケット料金もさほどは高くなかったので、気軽に聴くことができました。亡くなる前のレナード・バーンスタインやズビン・メータの指揮するニューヨーク・フィル、リカルド・ムーティ指揮のフィラデルフィア管弦楽団、クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮のクリーヴランド管弦楽団、ゲオルグ・ショルティのシカゴ交響楽団と、この頃にアメリカ5大オーケストラのうち4つを聴いています(残りのひとつは小澤征爾のボストン交響楽団)。他にもレナード・スラットキンのセントルイス交響楽団、シャルル・デュトワのモントリオール交響楽団なども聴きに行った。

こうした恵まれた環境にいたこともあり、91年には少し図に乗ってミュージカル、クラシック、映画など文化と施設を紹介した『New York Culture Book』(弓立社)という本まで出してしまいました。若気のいたりとはいえ、よく作ったものと我ながら感心します。

バブルが崩壊した後は、なかなかクラシックを聴くことはできませんでしたが、2003年ぐらいから、再びボチボチと聴くようになりました。それは少し時間的余裕ができたからでしょう。クラシック音楽を聴くようになったキッカケは、やはり歳をとったからという答えに間違いはないようです。

日曜日, 10月 21, 2007

巨人をダメにしている燦燦会

私はパリーグファンだが、今回の巨人の弱さは目を覆いたくなるようなものだった。

プロ野球のセリーグ・クライマックスシリーズは、リーグ2位の中日がリーグ優勝の巨人を3タテして、2年連続8度目の日本シリーズ進出を決めた。パリーグのクライマックス・シリーズが毎回白熱したゲームを展開して予定されていた全試合行ったのに対して、セリーグは中日が第1、第2ステージ5戦とも危なげなく勝って味気のないシリーズとなり、リーグによって明暗を分けた。

今回の巨人はホームコート・アドバンテージという特権を全然活かしきれなかった。巨人は2週間以上も実戦から離れていて試合感が全然なかったというが、そんなことは言い訳にすぎない。

巨人はセリーグ・クライマックスシリーズ第1ステージ(中日vs阪神)が行われる前日の12日に、ホテルニューオータニで1500人のファンを集めてホテルで優勝祝賀会を開いている。この祝賀会には上原多香子や比嘉愛未などの芸能人も出席して、ファン代表として山口信夫・日本商工会議所会頭(旭化成会長)や長嶋茂雄・終身名誉監督が祝辞を述べている。

なんと緊張感のない球団なのだろう。こんなことするなら、なぜ北海道日本ハムのようにお客さんを入れて、真剣な紅白戦を行ってお客さんに厳しい目で見てもらわなかったのだろうか。

それでは、なぜこのような優勝祝賀会を行ったかといえば、それはナベツネ(渡辺恒雄)やその取り巻きである燦燦会の存在が大きいと言われる。燦燦会とは巨人を応援する財界人の組織で、巨人しか知らないで育った脳天気な大企業の社長や、読売新聞に媚を売る企業の社長たちの集まりである。こうしたオッサンやオジイサンたちは、何かといえば祝賀会とか飲み会を開きたがるが、この燦燦会の存在が現在の巨人をダメにした要因のひとつでもあるのだから、もし巨人を強くしたいと考えるならば早急に解散するべきである。

まあ、ここに書いたことは所詮結果論でしかないが、巨人が準備不足であったことは否めない。それにしても、巨人というチームは選手が育たないチームである。このことについてはいずれまた書きたいと思う。

金曜日, 10月 19, 2007

NHK交響楽団創設秘話

ネットやMixiをやっていると、時として面白いことや凄いことを教えてくれる。2週間前に私がたまたま見つけたMixiの日記に、NHK交響楽団の歴史にとって秘話というべきものがあった。それは先月読んだ『N響80年全記録』(佐野之彦著・文芸春秋刊)にも載っていない大変興味深いものであった。これから書く文章はその日記を書かれた方の了解を得て書いています。

1925年、NHK交響楽団の前身である日本交響楽協会が創設された。その中心人物は山田耕筰と近衛秀麿の二人で、楽団員は映画館の学士や東京六大学の管弦楽部員だった。ところが、楽団を作ったはいいが、練習場所探しなどで困った近衛は、大学の後輩である東大オーケストラ部員だった鈴木勇に場所の提供を頼んだ。

この秘話をMixiの日記に書いたのはその“鈴木勇”のお孫さんにあたる方である。

鈴木勇は1900年生まれで、大学では近衛の1年か2年後輩になる。大学卒業後は大手銀行に勤めてN響や音楽とは関係ない80余歳の人生を過ごしている。ただ、彼は大変マメな人だったようで、数十冊の手帳型日記帳をはじめ数多くの書簡を遺品として残している。そのなかには近衛からの依頼のハガキ、御礼のハガキがあり、それと一緒に「勝手に練習場所を提供するな」という東大教授のお怒りのハガキも混じっている。

鈴木は東大オケでベートーヴェン交響曲第4番の日本初演時にクラリネットソロを吹いた人でもあり、学生時代はクラシック音楽に相当造詣の深い人だったようだ。しかし、近衛と大学の板ばさみに合って、なにかと気難しい立場にあったと思われる。それでなくとも、当時(1920〜30年頃)の東大オーケストラは、近衛秀麿の兄である後の内閣総理大臣近衛文麿に資金を提供してもらい、演奏旅行に出掛けたりしていた。これでは鈴木は近衛の言うことには何を言えなかったに違いない。

この鈴木の書簡は、震災などによって多くの史料を失ってしまった東大オーケストラ、そしてNHK交響楽団にとって貴重な史料であることは間違いない。いつの日にかこの秘話が明らかになる日も来るに違いない。

最後にこの貴重な話を私がブログに転載・執筆することを快諾してくださったたま子さんに感謝いたします。

木曜日, 10月 18, 2007

気持ちいい応援のクライマックス・シリーズ

パリーグのクライマックス・シリーズが熱い。今日の第5戦の予告先発はダルビッシュ有 vs 成瀬善久というパリーグを代表する投手同士。最後に最高の投手同士が投げ合いが期待される。

ここまでの4戦をテレビ観戦していて、とても気持ちがいいのが両チームの応援合戦である。両チームとも鳴り物を使っているが、他のチームに比べて鳴り物への依存度は低いと思われる。

なかでも嬉しいのが、両チームの応援団が、相手チームの打者がアウトになったときに、侮辱行為のラッパを鳴らさないことである。セリーグの応援団にはこのような侮辱行為をする応援団が多々ある。これは明らかに応援団がすることでなく侮辱団だ。パリーグでは残念ながら福岡ソフトバンクと西武がやっているが、パリーグファンとしてこの行為はぜひとも止めてもらいたい。

また、両チームには応援団員かのように、揃いのハッピきて内外野席をウロチョロする人がいないこともいい。通路を動き回るのは観客に失礼であり、静かに観戦したい人も数多くいるのだから、応援を強要する応援団員の存在なのど必要ないのである。

あと、意図的なブーイングを慎むようになったこともいい。昨年まで千葉ロッテのファンは相手投手の牽制球に対して執拗にブーイングをして相当の批判された。そのせいか、今年はかなり慎むようになった。ブーイングは突発的なことに対して自然発生的に起きるものであり、計画性および意図的なブーイングは明らかに応援ではない。

プロ野球の応援が今のような鳴り物入りのスタイルになって、はや10年以上になる。ただ、「カーン」という打球音を聞きたい、鳴り物が好きでない人のためにも、できれは何試合かに1試合とか何曜日は鳴り物を禁止という日をもうけてもいいのではないだろうか。

火曜日, 10月 16, 2007

腐ったテレビ局TBSを個人的に処分する

昨日、日本ボクシングコミッション(JBC)は先日のWBCフライ級タイトルマッチで、亀田一家が反則行為を繰り返した問題で、当事者である亀田大毅に対して1年間のボクサーライセンス停止、親父の史郎に対して無期限のセコンド資格停止、兄の興毅に厳重戒告の処分を出した。ここまでの処分は妥当だろう。ただ、JBC自体が謝罪しないのはおかしい。

そして、徹底的に処分されるべきなのはTBSである。

TBSはこれまで亀田一家を数多くのテレビ番組に出演させ、暴言・誹謗・中傷のたぐいの発言をすべて放送してきた。下記のブログを見ていただければわかると思うが、私はTBSに対しては1年前から苦言を呈してきた。しかし、今回の亀田問題で完全に堪忍袋の緒が切れた。これまで私は楽天がTBSを買収するのに反対してきたが、もうTBSなど潰れた方がいいと思っている。先輩たちが築いた「報道のTBS」「ドラマのTBS」という看板は、現在いるバカな後輩たちによって完全に奈落の底に葬られた。

TBSがこれまで亀田一家を擁護してきた放送は、法律でいうところの「幇助」である。つまりTBSが亀田一家の言動を放送したことは、世間に暴力行為および侮辱行為は黙認するという放送をしたことにほかならない。よって、JBCが処分を下したように、民放連(民間放送連盟)はTBSに対して、最低でも「厳重注意」ぐらいの処分を下すべきである。そして、視聴者も同様にTBSに対して処分を下すべきだろう。私は個人的に今後しばらく(少なくとも年内いっぱい)TBSの放送を見ないように処分を下した。これによって「日曜劇場」も「金八先生」も見ない。「情熱大陸」も見ない。再放送が予定されている「砂時計」も見ない。もちろん報道番組・情報番組なんか見ない。

腐っているテレビ局TBSを見る必要性はないでしょう。

一年前に私がブログでTBSを批判した記事は↓
http://k21komatsu.blogspot.com/2006/10/blog-post_116001742649842805.html

月曜日, 10月 15, 2007

トリスタンとイゾルデ

先日(11日)はNHKホールで約3年ぶりのオペラ鑑賞をしてきました。演目はベルリン国立歌劇場の『トリスタンとイゾルテ』。音楽はリヒャルト・ワーグナー。演出はハリー・クプファー。指揮:ダニエル・バレンボイム。出演者は下記の通り。

トリスタン:クリスティアン・フランツ
マルケ王:ルネ・パペ
イゾルデ:ワルトラウト・マイヤー
クルヴェナル:ロマン・トレケル
メロート:ライナー・ゴールドベルク
ブランゲーネ:ミシェル・デ・ヤング
牧童:フロリアン・ホフマン
船乗り:パヴォル・ブレスリク

舞台装置(舞台美術:ハンス・シャヴァノフ)は天使が羽を広げて伏せていることをモチーフにした大きな岩のようなセットがあるだけ。これが360度回転することによって、場面場面の情景および情感を表わすようになっている。この舞台美術はシンプルかつシンボライズされていて効果的なセット。ただ、セットがベルリン国立歌劇場用に作られたセットなのだろうから、NHKホールの舞台では広過ぎるので、もう少し袖を幕で切るなりにして舞台を狭くした方がもっと効果が上がった可能性がある。

ストーリーは下記のHPを参照にしていただきたいので、ここでは割愛させていただく。

出演者ではイゾルデを演じたワルトラウト・マイヤーの歌声が素晴らしい。彼女の歌声は知的であり理性のある響きがある。加えて、演技力が高く、目の配り方、顏の動かし方など単に歌を歌っているのでなく、イゾルデという役を見事に演じ切っている。そして、最後に歌う「愛の死」の歌声も透明感に満ちていて観客の視線を釘付けにした上、舞台の最後を優美に終えさせた。

一方、トリスタンを演じたクリスティアン・フランツは歌はいいが、演技がまるっきりダメである。ちょっとメタボリックすぎて動けないのである。舞台装置の傾斜がきつかったりと演じづらいかもしれないが、演者ならば舞台装置に対応するぐらいの力量がなくてはならい。いくらオペラだからといって、その甘えは現代では通用しない。オレは歌うだけというオペラ歌手は舞台に立つ資格はない。

観客をもっとも魅了したのはマルケ王を演じたルネ・パペであった。彼の伸びのあるバスは非常に緊迫感があり、舞台に緊張感を漂わせてくれる。できれば、彼にトリスタンを演じてもらいたかったと思うのは私だけではないだろう。

さて、音楽についてだが、ベルリン・シュターツカペレは第1幕や第2幕では結構外していた。第3幕でなんとか持ち直したが、バレンボイムはこのオーケストラに本当に満足しているのだろうか。

http://www.nbs.or.jp/berlin2007/detail02_top.html

日曜日, 10月 14, 2007

「もとけいば」と「馬と近代美術」展


以前にも書いたが目黒区には珍しい地名が数多く残っている。そのなかで、実際の地名ではないがユニークな俗称がバス停と商店街名として残っている。「元競馬場前」である。正しくは「もとけいばじょうまえ」であるが、住民は誰もが「もとけいば」と呼んでいて、後ろの「じょうまえ」は省略されている。その昔バスに車掌が乗っている時代、彼女たちは「次はもとけいば、もとけいば」と言っていた。そして、今でも運転手が時折「次はもとけいば、もとけいばです」と言ったりする。

「元競馬場前」の名前の由来は目黒競馬場である。目黒競馬場は1907年(明治40年)に現在のJRA(日本中央競馬会)の前身である日本競馬会によって創設された。そして、1932年(昭和7年)に記念すべき第1回日本ダービー(東京優駿大競走)を開催した。しかしながら、ここが借地であり地主からたびたび地代値上げを要求されたり、周囲の宅地化が進んだことにより、翌年に第2回ダービーを開催後、現在の府中にある東京競馬場に移転した。

目黒はもともと馬と関連が深い土地柄である。区内には駒場や鷹番といった江戸時代から将軍家に縁の深い土地があり、また隣の世田谷にも駒沢、下馬、上馬、駒留、駒繋と馬につながる地名が昔からある。明治時代になると、世田谷と目黒が隣接する一帯に陸軍練兵場ができ、陸軍は競馬で馬の血統を調べられるために競馬を後押しをしていた。そのために、目黒競馬場にあったたすき掛けの障害コースを利用して、軍人による障害レースも行われていたという。

今年は目黒競馬場開設100周年にあたり、今月11日から目黒区美術館でが開催されている「馬と近代美術」展に行ってきた。

美術展は5部構成になっていた。その内容はだいたい次の通りである。
[目黒競馬場の歴史]
目黒競馬場時代の写真、馬券、出走表など
[馬の彫刻]
ハイセコーなどの名馬の彫刻など
[浮世絵や錦絵などに歴史的絵画]
歌川広重などの浮世絵、上野不忍池の周囲をまわる競馬の錦絵など
[日本人画家による馬の絵画]
荻須高徳、山口薫、坂本繁二郎など有名画家の馬に関する絵画
[海外の画家による馬の絵画]
ロートレック、ピカソ、藤田嗣治など世界の画家による馬に関する絵画

目黒美術館はさほど大きな美術館ではないので、展示品の数は総数はあまり多くはない。しかし、パンチで数字を打っている馬券や、まるで一冊の手帳のようになっている出走表は興味深かった。また、絵画では荻須高徳や山口薫の目にはちょっと目を奪われた。馬と美術に興味のある方は行かれるといいかもしれない。11月25日まで開催。

目黒美術館
http://www.mmat.jp/

土曜日, 10月 13, 2007

日本人があまり行かない観光地 モニュメント・バレー

テレビのCM、映画のロケ地などとして、誰も知っているような有名な場所だが、意外にもここを訪れる日本人観光客は少ない。その理由は近くに大きな都市がなく、アクセスが不便だからである。

モニュメント・バレーはユタ州、コロラド州、ニューメキシコ州と州境を接っせる、アメリカ唯一の地、フォーステイト・コーナーに近いアリゾナ州北東部にある。ここはナヴァホ族の居留地になる。

モニュメント・バレー近くには空港がないため、訪れるには車で行くしかない。それも一番近い大都市であるラスヴェガスからだと車だと8時間はかかる。また、その途中にあるグランド・キャニオン国立公園からでも6時間はかかる。加えて、近くにおおきな宿泊施設がないために、団体旅行でここを訪れる人はほとんどいない。

ラスヴェガスから日帰りツアーなどがあるようだが、朝5時半出発という強行スケジュールのためか参加者は少ない。もし、ここを訪れたいと思うなら、ラスヴェガスからのグランド・キャニオンとセットになった1泊2日のツアーをおすすめする。そして、ただ景色を眺めるだけではなく、赤茶けた大地のなかに入れるヴァレー・ドライブを楽しんでもらいたい。グランド・キャニオンは自然の怖さを見せつけてくれる観光地だが、モニュメント・バレーは自然の偉大さを見せつけてくれる。

この二つの場所を見れば、アメリカの自然の凄さが解るであろう。

金曜日, 10月 12, 2007

パリーグ若手投手陣の成長は素晴らしい

今年から新設されたプロ野球のクライマックス・シリーズが始まり、パリーグの第1ステージは投手陣の好投とサブローの活躍で、千葉ロッテ・マリーンズが福岡ソフトバンク・ホークスを2勝1敗で下した。これでマリーンズは日本シリーズ出場権をかけて北海道日本ハム・ファイターズと戦うことになった。それにしても、今年のパリーグは若手投手が成長した。嬉しい限りである。

防御率と勝率の2冠をとった千葉ロッテ・マリーンズの成瀬善久(22歳)。奪三振王となり優勝の立役者のひとりになった北海道日本ハム・ファイターズのダルビッシュ有(21歳)。最多勝は松坂が抜けても孤軍奮闘した西武ライオンズの涌井秀章(21歳)。このように今年のパリーグの投手部門は若い投手が活躍した。

これに加えて、新人王候補は東北楽天イーグルスのマーくんこと田中将大(19歳)と西武ライオンズの岸孝之(22歳)と共に11勝7敗の好成績を残した投手である。

こうしたパリーグの若手投手陣が台頭したのに比べて、セリーグは残念ながらこれという若手投手陣の活躍はなかった。その昔は「人気のセ、実力のパ」と言われたが、ここ数年はパリーグの優勝チームが日本シリーズを制覇していて、このように若手投手陣が人気も実力を兼ね添えて成長しているので、もはや「人気も実力もパ」の時代になったといっても過言ではないだろう。セリーグが人気も実力も取り戻すには、今度の日本シリーズで勝つしかない。

パリーグ・ファンとしてセリーグの奮起を期待したい。

木曜日, 10月 11, 2007

インスタント・ラーメンは永遠の味

この歳になってもインスタント・ラーメンは大好きです。初めて食べたインスタント・ラーメンは「チキンラーメン」だと思いますが、「サッポロ一番みそ味」を食べたときの衝撃は今でも忘れません。

インスタント・ラーメンは1958年に「チキンラーメン」が発売されたのが始まりです。この「チキンラーメン」を作ったのは、後の日清食品会長で今年の1月に96歳でなくなった安藤百福です。安藤は「おいしい」「保存できる」「調理が簡単」「価格が適正」かつ「安全」と5つを目標掲げて「チキンラーメン」を完成させた。販売価格は35円と当時の物価を考えると割高ではあったが、あっという間に人気商品になった。その後、各社がインスタント・ラーメンを開発、明星食品が「味付けラーメン」を、エースコックが「カレーラーメン」を発売した。

そして、1960年代に入ると各社が数多くのヒット商品が登場した。1966年1月、サンヨー食品が「サッポロ一番」を、9月に明星食品がホタテ味をベースにした「明星チャルメラ」を発売した。それから2年後の1968年2月、日清食品が胡麻ラー油付き「出前一丁」を、9月にサンヨーが「サッポロ一番みそラーメン」を発売した。

それまでラーメンといえば、しょうゆ味か塩味しか知らなかった私にとって、みそ味の「サッポロ一番みそラーメン」は衝撃的だった。東京には絶対なかった味であり、中学生で食べ盛りということもあってか、濃いめのみそ味は忽ち病みつきになり、毎日食べても平気だった。

インスタント・ラーメンは発売当初は即席ラーメンと言われ、熱湯をかけるだけだったり、お湯で簡単に煮るなどの簡易に作って食べることを目的としていた。そのせいかどうかしらないが、マンガ『おそ松くん』のなかで、小池さんはいつもインスタント・ラーメンしか食べていなかった。(笑)

「チキンラーメン」「サッポロ一番」「明星チャルメラ」「出前一丁」といったブランドは現在でも第一線で活躍している。最近のインスタント・ラーメンは「具だくさん」とかかなり高額なものが発売されていますが、私は昔ながらのインスタント・ラーメンが好きである。このところ「明星チャルメラとんこつ味」に浮気がちだが、「サッポロ一番みそ味」も密かに味わっています。

水曜日, 10月 10, 2007

憧れの靴だったオニツカ・タイガー

先月29日に大手スポーツ用品メーカー、アシックスの創業者で会長の鬼塚喜八郎さんが死去した。享年89歳だった。大往生の人生だったに違いない。私たちの年代でバスケットボールをやっている者にとって、オニツカ・タイガー(現在のアシックス)は憧れの靴だった。それは小学生がゴム靴でなく革靴を履くぐらいの憧れの靴だった。

鬼塚さんは1950年代半ばに高校のバスケットボール部の活動を見学して、急ストップ・急スタートに対応する凹型靴底を考案して、タイガー・バスケットシューズを誕生させた。また、ローマ・オリンピック(1960年)で裸足でマラソンを優勝したエチオピアのアベベ選手が、毎日マラソンで来日した際に、鬼塚さんはアベベ選手を訪ねてシューズを使うよう説得して世界一軽いシューズ履いて、毎日マラソンを制覇したという逸話の持ち主でもある。。

私がバスケットを始めたのは小学校6年生(1966年)のときである。ポートボールが得意で、校庭の片隅にあったリングにボールを投げるのも好きだったので、バスケットを始めるのはごく自然なことだった。ただ、小学生のときはお遊び程度だったので、靴はゴム製運動靴だった。

そして、中学に入るとすぐにバスケット部に入った。私の学校のバスケット部は私が入学する4年前に都大会で優勝するなど強豪チームだった。そのおかげで、練習は毎日でそれはそれは厳しかった。入学時に最初に履いた靴は布製の市販されているバスケットシューズで、走るとかジャンプするにはまったく問題はないが、ストップやターン時には少し滑るために、とてもじゃないが本物のバスケットシューズとは言えなかった。それでも、1年生は基礎体力や基礎練習の繰り返しなので、ちゃんとした靴は必要とされていなかった。というより、履くことすら許されるような状況ではなかった。

しかし、夏休みが過ぎて新入部員も半分以上は辞めていき、来年のことを見据えるような時期に入ると、一番怖い先輩から「お前たちも早くタイガーを買えよな」と言われた。その言葉が嬉しかったことを今でも覚えている。タイガーを履けるという喜びと同時に、頑張れよという意味が重なっていた。

私が最初に買ったタイガーは布製のものだったが、靴底がキュッキュッと鳴るぐらい素晴らしいものだった。確か当時の値段で2500円はしたように思う。今では中学生でも革製のアシックス、コンバース、ナイキなどを履いている時代となったが、私は高校まではずっと布製であったし、当時は革製を履いていたのは日本リーグの選手だけのような時代だった。

オニツカ・タイガーは1977年(昭和52年)スポーツウェア・用具メーカーの株式会社ジィティオ、スポーツウェアメーカーのジェレンク株式会社と合併し、社名を株式会社アシックスに変更して、ご承知のように現在では世界的なスポーツ用品メーカーになっている。

そして、いま私がジムで使っているトレイニングシューズはもちろんアシックス製である。

火曜日, 10月 09, 2007

報道機関はなぜ実名報道をしないのか

6日未明、大阪府・寝屋川市のコンビニで、ビールなどをカゴに入れて万引き(強盗)した少年2人を追跡してアルバイト店員が殺されるという事件があった。

殺されたアルバイト店員は上内健司さん(27)と実名報道がされているのに、殺した側の工員(19)と少年(15)の名前は報道されない。

なぜなのだろうか。それは少年法という存在があるからである。少年法では裁判所の審判に付された少年を実名報道を含めて、人物が特定できる情報を報道することを禁じている。

ナンセンスな法律である。ただ、最近は事件によっては実名を報道するマスメディアもある。今回の事件は万引きという「些細な出来事」から起きた事件であろう。しかしである。万引きは明らかに犯罪であり、少年はナイフを携行している。これも銃刀法違反の可能性がある。

少年たちに犯罪意識が薄かったにせよ、今後の万引き事件を防ぐためにも、実名報道をすべきである。犯罪の低年齢化、凶悪化を防ぐためにも、今回の事件は実名報道をすべきである。週刊誌よ、頼みます。

月曜日, 10月 08, 2007

小山実稚恵の初ブラームスと「運命」の返り討ち

一昨日(6日)、NHKホールでのNHK交響楽団第1602回定期公演を聴いてきました。指揮はN響正指揮者の外山雄三。ピアノは日本を代表するピアニストの小山実稚恵。小山実稚恵は他のオケの共演で聴いたことはあるが、N響との共演を聴くのは私にとっては初めてであった。

演目
ブラームス/ピアノ協奏曲第1番ニ短調
  〜休 憩〜
ベートーヴェン/交響曲第5番ハ短調

私はブラームスのピアノ協奏曲第1番を密かに「ブラームスの交響曲第0番」と呼んでいる。この作品は彼が25歳という若い時に書いた作品であり、実際にこの曲を途中まで交響曲として書いていたようである。そのために、ピアノ協奏曲としては稀にみる大規模かつダイナミックな曲となっていて、演奏時間も約45分にも及ぶ。ブラームス好きにはたまらない曲でもある。

第1楽章。小山実稚恵は最初の約5分間に及ぶ序奏を身体を左右に振りながら、身を委ねるようにしてN響の演奏を聴いている。そして、ピアノに指が触れると同時に、力強く鍵盤を叩いていく。しかし、それは決して日本人女性としての品位を忘れることなく、優しさ、淑やかさ、慎ましさを体現している。この人の音色には日本人だからこそ解るオーラみたいなものがあり、それがまるでエコーがかかったように、広いNHKホールに響き渡っていく。途中、いくつかのミスタッチもあったが、小山はそんなことおかまいなしに、自分独自の内面的な世界を築いていく。それはまるで綺麗な洋館で孤独にピアノを弾くお嬢様のように見える。そして、外山雄三およびN響のメンバーはしっかりとその洋館を囲む木立を築いていく。

第2楽章。ここはアダージョだ。小山が奏でるピアノは洋館の部屋で悲しく泣いている。それはあたかもピアノ台に頭をもたげながらも、涙が指に代わって音を叩くかのような痛々しさでもある。こんな表現力のあるピアノは未だ嘗て聴いたことがない。その寂しさと悲しさにお客を倒錯の世界に導いていく。その証のように客席のあちこちで膝においてある物を落すような音がする。つまり小山はまるで催眠術師のように、お客を洋館の一室に眠らせていくのである。人によっては睡魔に襲われる世界かもしれないが、私にとっては身の毛もよだつような恐ろしい世界に導かれるような音色であった。

第3楽章。今度は小山の指先は撥ねる、翔ぶ、そして舞う。それは洋館のガラスが割れ、外壁が落ち、屋根が傾いていくような凄まじい勢いがある。またオケが奏でる木立にも強い風を送り込む。まるで前衛的芝居を観ているかのような錯覚すらおぼえる。そして終楽章では、小山の内面的な世界は色彩溢れるきらびやかな外面的な世界になり、オケと連動していく。小山実稚恵の表現力には無限の可能性を秘めているようだ。彼女にはブラームスがお似合いのようである。

休憩を挟んだ2曲目は3日前に「不満ボイム」と書いたベートーヴェンの交響曲第5番である。この交響曲第5番は日本では広く「運命」という題名で知られている。先日のベルリン・シュターツカペレの公演プログラムにも、はっきり「運命」と書かれていた。ところが、この題名は日本だけの通称であり、世界共通の標題ではない。N響では「英雄」や「田園」は標題として記しているが、「運命」という名はプログラムに記していない。

第1楽章。あの「ダダダダーン」という緊張感溢れる音色が腹にこたえる。前曲のブラームスピアノ協奏曲では外しまくっていたホルンが、今度は息もピッタリとオケをリードしていく。また、ティンパニーの植松透の的確な響きが、コンマス堀正文率いるヴァイオリンをはじめとした弦を支えていく。心地よい緊張感が会場を漂う。やっぱり「運命」はこうでなくちゃと悦に入る。

第2楽章。ここはソナタ風な二重変奏曲。ここもホルンの高らかな音色がメロディをリードしていく。そして、フルートの神田寛明、オーボエの茂木大輔、クラリネット磯部周平(?)、ファゴット岡崎耕治の4人がしっかりとソロパートを演奏する。木管陣のいつもながら安定しているなぁと感心させられる。

第3楽章。冒頭にこれまた高らかにホルンが鳴り響く。そして、私が大好きなチェロ、ヴィオラ、第二ヴァイオリンとメロディが流れていくパートでは、それはまるで心臓の鼓動が左胸から脳裏に伝わるように流れるように連なっていく。これです。「運命」はこうでなくちゃとまたもや悦に入る。

第4楽章でもホルンは冴えまくり、トランペット、トロンボーンと共に金管の色鮮やかな音色を轟かせる。そして、弦も木管も完全に協働作業として、ベートーヴェンの緻密で緊張感あふれるメロディを奏でていく。そして、終曲部分では第4楽章だけのためにずっと座っていた日本一のピッコロ奏者と言われる菅原潤がピロロロッ〜♪ピロロロッ〜♪と引き締まった音を奏でる。これですよ、これですよ。思わず納得してしまう。パチパチパチパチ。

最後にN響の「運命」は見事に3日前のベルリン・シュターツカペレの返り討ちをしてくれた。その意味では非常に満足して、当然ながら帰り道は飲み歩き「不満ボイム」が解消した。(笑)

土曜日, 10月 06, 2007

早食い大食い番組はマナーとモラル違反だ!

最近またテレビで早食いや大食いの番組が増えてきた。ニュース番組や情報番組のなかで特集としてやることがある。これには呆れかえる。早食いや大食いはニュースや情報の意味をなさない。もちろん身体にもよくないし、子供の教育によくない。

早食いや大食いをする人は大食漢のスポーツマンではなく、見た目はごく普通の人たちである。つまり、やせの大食いでこういった人たちのほとんどが胃下垂である。

胃下垂とは胃が腸へと垂れ下がった形をしていて、食べたものが胃に溜まることなく、直接腸へと流れていくのである。これは病気ではないにしろ、異常体質の持ち主であり、このような人たちの食事を一般の人が行うと大変なことになる。過去には早食いが原因で喉に食べ物を詰まらせ窒息死した事件がある。ホットドッグの早食いで有名になった奴ですら、顎関節症なる怪我になったぐらいだから、危険なことでもある。

豊作を願って食の神様に感謝をするなどの早食いや大食いは、伝統行事もしくは神事として行われているは問題はないが、テレビが見せ物として放送するのは絶対に止めてもらいたい。早食いや大食いは食べ物に対する冒涜であり、その素材となっている家畜、海産物、お米、野菜などの食材を作る人に対しても失礼である。また、マナーにも反する。

このような番組を平然と流しているテレビ屋がいることが信じられない。彼らにはモラルとかマナーという理性がないのであろうか。

木曜日, 10月 04, 2007

ベルリン・シュターツカペレには不満ボイム


昨日(3日)、サントリーホールでベルリン国立歌劇場のオーケストラであるベルリン・シュターツカペレの公演を聴いてきました。指揮は今や世界の5本の指に入るぐらいの実力と人気を兼ね備えていると言われる帝王ダニエル・バレンボイム。

演目
R.シュトラウス/交響詩「ドン・キホーテ」
  〜休 憩〜
ベートーヴェン/第5番ハ短調「運命」

バレンボイムと言えば、パリ管弦楽団やシカゴ交響楽団の指揮者として名声を馳せた人である。私はアメリカでシカゴ交響楽団を聴いてことがあるが、そのときはまだ音楽監督がサー・ゲオルク・ショルティが君臨していた時代。私がバレンボイムを聴いたのはシカゴ響に赴任間もないころで、今回が10数年ぶりになる。

ところで、いきなり余談ですが、開場前にスタバのコーヒーを飲みながら、ホールが開くのを待っていたら、私の前を黒と赤の洋服で纏った綺麗な若い女性が歩いていきました。あれまあ、私のご贔屓のN響のヴァイオリン美人奏者・宇根京子さんではありませんか。第三種接近遭遇(ちと古いか)です。オーボエの池田昭子さんとは開演前の室内楽で2〜3回遭遇していますが、宇根さんとは初めてです。思わず後を追いかけようかと思いましたが、私は「ストーカーではない、ストーカーではない」と自問自答しながら自制しました。(笑)

さて、コンサートです。これがいただけません。正直、久しぶりの海外オケの外れでした。何が悪いと言えば、コンマスです。この人、なんというか音色もよくないし、統率力もありません。バレンボイムがなんでこんな人をと思うぐらいです。それに比べて凄かったのは身長2メートルはあろうかというヴィオラ首席奏者の方です。「ドン・キホーテ」は基本的に、チェロ、ヴァイオリン、ヴィオラのソロの掛け合いが聴きどころなのですが、若いチェリストくん、ヴィオラの巨人さんはいいのですが、コンマスがマッチしていないのです。

そのためか、演奏後は若いチェリストとヴィオラ首席奏者に盛大な拍手が送られましたが、コンマスへの拍手は弱かったです。お客さんは正直です。

休憩後は「運命」です。バレンボイムはじっくり腰を落して、そして時に鋭い動きを加えて指揮します。しかし、オケがついていけません。例えば、第一楽章の終曲部分はキレがなく力強さが伝わってこない。第三楽章ではチェロ、ヴィオラ、第二ヴァイオリンとメロディが流れていくパートがあるだが、ここではヴィオラがめちゃくちゃに弱くて、全くバランスがとれていない。また、第4楽章でも金管の主要な音色とそれを支える弦の音色が調和されておらずどことなくチグハグでした。

それでも、演奏後はお客さんからは会場は割れんばかりの拍手。ただ、これはオケに対してというよりも、バレンボイムの指揮とアンコール期待にあった。というのも、舞台下手(左側)にはなぜか使われもしないグランドピアノが置かれていたからである。もし、バレンボイムが機嫌よければ、ピアノを弾くつもりでいたのあろう。そうだとしたら、このコンサートはバレンボイムにとっても不満だったに違いない。

水曜日, 10月 03, 2007

私にとって駅名はまだ「二子玉川園」駅のまま


昔のアルバムをひも解くと、小学校2年生のときの遠足は二子玉川園だった。学校からどのようにして行ったか覚えていない。しかし、学校の近くを走る東急バスの路線に「目黒駅=二子玉川駅」というのがあるので、学校からは簡単に行くことができる。

二子玉川園は現在の二子玉川駅の南東側の多摩川沿いにあった遊園地である。1922年(大正11年)に玉川第二遊園地として開設されたのがその起源とされている。そして、1925年に隣接して玉川プールが開設された。その後、二子玉川園は玉川電気鉄道の直営となったり、読売新聞と提携して読売遊園と改称したりしたが、第2次世界大戦中の1944年に一端閉園となる。

戦後は1954年に東急不動産によって二子玉川園が再開。翌年東京急行電鉄に経営権が移り、フライングコースターを設置したり、隣接した土地に映画館・二子東急を開館したり、五島ローズガーデンを開園して多角的な遊園地経営をすすめた。私がここを訪れていたのは1960年代であったが、当時はミニ自動車、ジェットコースター、メリーゴーランド、コーヒーカップなどが充実していたように思う。

ここは東宝、国際放映、円谷プロといった映画関係の会社が近くにあったために、数多くの映画やドラマの撮影地として使われた。なかでも、ウルトラ・シリーズ(最近こればっか)や『ブースカ』の撮影が数多く行われた。そして、映画館もあったためか、春休みや夏休みには特設ステージで「ウルトラマンショー」や「仮面ライダーショー」が行われて数多くのチビッコが押し寄せた。おそらくこの頃が遊園地の最盛期ではなかっただろうか。

しかし、その後は各地に絶叫マシーンを揃えたテーマパークが出来たり、沿線の少子化が進んだことになどによって、入場者数は減っていき1985年に閉園されて、ナムコ・ワンダーエッグになった。しかし、これも2000年末を閉園となり、跡地は現在二子玉川東地区再開発地域となっているが、反対運動もありまだまだ建設は進んでいない。

そして、二子玉川園の変貌によって、多摩川駅同様に二子玉川駅の駅名も何度も変更された。

1907年に玉川電気鉄道(後の東急玉川線)が開設した当時の駅名は「玉川」駅。それが20年後の1927年に目黒蒲田電鉄二子玉川線(現在の大井町線)が開通して駅名は「二子玉川」駅と別名をつけた。そして、1939年に玉川線「玉川」駅が「よみうり遊園」駅に改称。翌年の1940年には大井町線・玉川線の両駅を統合して「二子読売園」駅となった。ところが読売遊園が休園になったために、1944年には「二子玉川」駅に改称。そして、1954年に二子玉川園が開業すると、「園」がついて「二子玉川園」駅となった。しかし、2000年に新玉川線を田園都市線に統一する機に駅名は「二子玉川」駅に改称され現在に至っている。

ただ、私にとってここの駅名は「二子玉川園」駅のままである。

火曜日, 10月 02, 2007

Mixiの衣替えは明らかに失敗

昨日、10月1日正午ぐらいに私も参加しているMixiのデザインが変更された。最初はう〜んなんか妙に明るいなぁ程度と思い、いずれは慣れるんだろう〜なぁなどと思っていましたが、いっこうに慣れるどころか、目がチカチカして見づらくてしようがありません。

このデザイン変更に賛成の人は非常に少数のようで、その不満はMixiの機能要望のページを見れば明らかです。Mixiをご利用の方はぜひとも、そこをご覧になってください。

このデザイン変更によって、Mixiの利用率は間違いなく減少すると思われます。そのことはいずれ広告費の減少、株価下落という方向になると思われまので、Mixiの株をお持ちの方は注視した方がいいでしょう。

月曜日, 10月 01, 2007

10月1日は衣替え

今日は10月1日。衣替え(衣更、更衣とも書く)の日です。

私が制服を着ていたのは幼稚園の2年間と中学の3年間。小学校、高校、大学は制服がなかった。加えて、社会人になってからはほとんどノーネクタイの生活なので、衣替えという習慣があまり身についていません。今日の私の服装はまだ半袖です。(笑)

この衣替えは平安時代に宮中で始まったと言われ、もともとは中国の習慣に倣っている。しかし、当時は、旧暦だったのので今と違って4月1日と10 月1日に行われていたという。これを新暦に変えると、今年だと5月17日と11月10日になる。え〜、うそ〜。そんな遅い時期まで薄着でいるのと、あちこちから悲鳴が出そうである。しかし、昔の日本人は今より薄着であったこともなんとなく察しがつくので、これは事実なのであろう。季節感の私でも11月10 日まで薄着でいるのは無理である。

東京も先月29日から気温が低くなり、めっきり街は秋の様相になりました。それにしても、若い女性はどうしてすぐにブーツを履くのだろうか。秋のファッションをもう少し楽しむ余裕はないのだろうか。

こんなことを書いていると、「オジサン、ウザイよ」と言われそうだが。