火曜日, 7月 31, 2007

宮本文昭指揮の東京都交響楽団

先週の土曜(28日)、ミューザ川崎で開かれている「サマーフェスタカワサキ」の東京都交響楽団の公演に行ってきました。指揮はオーボエ奏者としての生活にピリオドを打ち、指揮者に転身した宮本文昭。この公演は指揮者として6月のJTホールでの管楽アンサンブルに続いて2回目。オーケストラの指揮は初デビューのようだった。ピアノはパリ在住の児玉桃。

演目
モーツァルト/歌劇「魔笛」序曲
モーツァルト/ピアノ協奏曲第23番イ長調K.488
ラヴェル/ボレロ

ピアニストから指揮者に転じる人は枚挙にいとまがないが、オーボエ奏者から指揮者に転じた人はあまり聞いたことがない。ただ、“もぎぎ”ことN響首席オーボエ奏者の茂木大輔も指揮を行っているので、ひょっとすると今後は木管金管奏者から指揮者になる人が増えるかもしれない。宮本文昭はその先駆者的存在になるか。

最初は歌劇「魔笛」序曲。宮本文昭は指揮棒を使わない。あるときは両手をピアノを弾いているように、あるときは空手の型を行うように、あるときは社交ダンスをするかのように、少し腰を折り曲げて、体を前後左右に動かしてリズムをとりながら、オケを掌握しようとしている。彼は美しく透明感のある音をオケに求めているように聞こえる。それはどことなく汗をかいたあとに飲む清涼飲料のようだ。しかしがら、その音には私が好きなビールにあるコクやキレが感じられない。もう少しアルコール度がある音が欲しい。(笑)

2曲目はモーツァルト。この23番はモーツァルトのピアノ協奏曲でもっとも有名な作品だが、児玉桃はさりげなく非常にあっさり弾いてしまう。ちょっと拍子抜けだった。

3曲目はお目当てのボレロ。この曲では宮本は自分の感情を思いっきりオケにぶつけていく。あの誰もが知っているメロディをフルート、クラリネット、ファゴットとソロパートが変っていくが、宮本をそれをうまく誘導していく。東京都交響楽団のソリストにはかなりのバラつきがあったが、逆にチェロやコントラバスなどの弦楽器がこうしたバラつきをうまく補っていたのが印象的だった。特にコントラバス陣のしっかりした音程とリズム感は素晴らしく、彼らの力なくしては、最後の高揚を引きだすことはできなかったに違いない。

ボレロでの宮本の指揮ぶりは見事であった。彼の指揮からすると、こうした滑らかでリズミカルな曲が向いているのかもしれない。しかし、彼は長年ドイツに住んでていたのであるから、ベートーヴェンやブラームスといった正統派ドイツ音楽の指揮も聴いてみたいものである。今後の宮本文昭の指揮者生活に注目したい演奏会であった。

宮本文昭公式HP
http://miyamotofumiaki.com/

月曜日, 7月 30, 2007

参議院選挙出口調査の正確さに驚き

参議院選挙で与党が敗北することは予想されたことではあったが、今回の選挙で一番驚いたのは各テレビ局の出口調査がかなり正確であったことだ。下の表を見てもらいたい。この数字は午後8時の投票終了と同時に各テレビ局が一斉に報じた数字である。(※NHKは特定の数字を表わさなかったので入れていない)

       自民  民主
日本テレビ  38  59
TBS    34  60
フジテレビ  36  61
テレビ朝日  38  58
テレビ東京  39  60

この5局の数字を平均すると自民37、民主59.6で実際の結果(自民37、民主60)とほぼ一致している。出口調査がどのように行われているかは詳しいことは知らないが、今回の選挙では期日前投票が1000万人以上もいたので、私は出口調査の結果に多少のズレが生じるのではないかと予想した。しかし、結果はお見事と言わざるをえない。普段テレビ局の報道には苦言ばかり呈している私だが、今回ばかりは脱帽である。ただ、これらの出口調査はいずれも系列新聞社との共同作業であることは言うまでもない。

金曜日, 7月 27, 2007

焼酎かす海洋投棄禁止と日本酒の巻き返し

日本酒が巻き返し攻勢に出ている。最近、新聞や雑誌には酒造組合の広告を見るようになった。この背景には相次ぐ焼酎の値上げがあるようだ。

7月1日より大手芋焼酎メーカーが値上げを行っている。値上げの原因は3つあるそうだ。第一に原料となるサツマイモの高騰。第二に原油高による輸送費の高騰。ここまでは解るが、第三の原因は、製造で発生する焼酎かすの処理コストの増加ということである。今年の春から海洋汚染防止するロンドン条約により、焼酎かすの海洋投棄が禁止となった。そのために焼酎メーカーは焼酎かす処理のための設備増設を余儀なくされたということである。

我々が飲んでいる焼酎かすが海洋投棄されたとは、情けないことに知らなかった。ちょっと罪深いがする。しかしながら、現在では焼酎かすの再利用が進んでいて、ブタのエサ、農作物の肥料、健康飲料に至るまで新たな商品開発が行われている。

こうした焼酎の値上げを機に、日本酒の巻き返しが躍起である。今日では各酒造メーカーに研究熱心な若い杜氏がどんどん登場して、現代にマッチした日本酒が多く誕生している。こうした日本酒は以前に比べて、飲みやすくなったのはもちろんだが、翌日に残らなくなり、二日酔いを起こすことがほとんどなくなった。

杜氏というと、どうしても昔からの職人気質の人が多く、味に関して一貫して「味を守る」という人が多い。それはそれで大事なことだが、やはり守りの姿勢に入り、新しい味の開拓をしなくなってしまう。若い杜氏たちは農業大学などで発酵学の勉強をしているものがほとんどだから、科学的な分析で新しい日本酒作りを行っている。

これまで日本酒といえば、灘や伏見の大手酒造メーカー、そして一部の有名地酒メーカーだけの時代だったが、今日では流通機構が大変革したので、どんな小さな酒造メーカーでも直接消費者に製品を届けることができるようになった。私もしばらくは日本酒巻き返しブームにのってみたいと思う。(笑)

火曜日, 7月 24, 2007

選挙公報が届かない

参議院選挙まであと5日。しかしながら、家には選挙公報が届いていなかった。そこで、選挙公報配付を依頼されている「目黒区新聞販売組合」に電話して、至急配付するように言った。

実はこの選挙公報が届かなかったのは、今回が初めてではない。今年4月の東京都知事選挙&区議会議員選挙のときも、選挙公報は届かなかった。そのときは配付を依頼された業者は「シルバー人材センター」であったが、投票3日前に電話をして、すぐに持ってくるよう頼んだ。

このように連続して選挙公報が届かなかったので、目黒区選挙管理委員会に電話をしてちょっと苦言を呈した。そして、こうした実態が他にもあるのかを調べてみたらびっくりした。下記のネット記事によると、前回の2004年参議院選挙では、なんと「全国では最低でも約400万人の有権者に届かないという驚くべき実態が明らかになった」という。

選挙公報配付は以前は新聞折り込みがほとんどだった。現在でもこの方法が取られているところが多い。しかしながら、最近の東京では新聞を購読しない家も多く、この方法では全世帯に配付されることはできない。そのために、目黒区では何年前からか「シルバー人材センター」などを利用して、全戸配布に切り替えた。しかしながら、この全戸配布にも落し穴があるようだ。

これは飲み屋情報なのだが、商店街では雑居ビルの階上に住んでいる人たちも多く、やはり選挙公報が届かないらしい。私の家も同じようにビルなので見落とされているのかもしれない。しかし、選挙公報は届かなくても、ピザや引っ越しなどの宣伝チラシはいっぱい入っている。

つまり、全戸配布といっても、選挙人名簿を見て住所を確認して配布しているのではなく、行き当たりばったりで配布しているだけなのである。これでは雑居ビルに住んでいる方や、路地裏の分かりにくい家には選挙公報は届かないに違いない。

昨今は期日前投票ができるようになり、選挙制度もよくなったように見えるが、実は選挙公報が届いていないという実態が見落とされている。これでは公正な選挙が行われているとは言えない。選挙管理委員会も所詮お役所仕事で、選挙公報配付は下請業者に丸投げしているだけである。

関連記事
http://eritokyo.jp/independent/nagano-pref/hiranomasashi-col0001.html

月曜日, 7月 23, 2007

年金も税金も大事だが、第一に歳出削減を

参議院選挙の焦点もしくは争点として年金制度がクローズアップされているが、もともと年金制度そのものに懐疑的な私としては、年金制度より税制改革を各党がどう考えているのかを重要視している。

私の税制改革への根本的スタンスは歳出を抑制して、まずは国の借金を減らせというものである。歳出も抑制せず増税というのはもちろん反対である。ただ、消費税に関しては、もしふるさと増税をするならば、都市部においてのみ消費税をアップするなど、これまでと全く異なった税制体制を行うようにするなど、増税に関してナンデモカンデモ反対という考えではない。

で、ちょっと自分の税金を調べてみた。私の平成17年度と18年度の年収はあまり変わっていない。その差は数万円程度である。ただ、18年度はケガをして1ヶ月余りの入院およびその後の通院のために所得控除額が17年度の2倍以上になっている。このために国庫に払う所得税は激減した。しかしながら、地方税(特別区民税・都民税)は増えている。いったいどうして? 医療費控除は地方税にほとんど反映しいないようである。地方税は2千円安くなっていただけである。

これだけでは税金がどうなっているのかわからないので、同居している母の税金を調べてみた。母は収入がさしてあるわけではないのに、所得税も地方税もかなり上がっている。ということは、私がもし入院をしなければ、私の所得税と地方税は上がっていたに違いない。

前述したように私は決して税金を上げることに反対ではない。ただ、無駄な歳出には納得がいかない。現在、日本の景気は上向きでいる。そんななかで企業や個人商店はいろいろな歳出削減にとりくんでいる。リストラという名の人員整理は今日でも行われている。しかし、国が役人の削減をしているという話は聞いたことがない。

先日、どこかで「全国30万人の国家公務員のうち、7000人もの職員が長期病休で職場を離れている」という記事を読んだ。そして、この7000人の半分近くは本当の病気ではなく、登校拒否ならぬ出所拒否の人間であるという。つまり、国は3000人近い何もしない役人を雇っていることになる。こんなことでいいのだろうか。もしこれが本当ならば、歳出抑制をできない国(与党・自民党&公明党)に税制改革をうたう資格はないと思う。同じように、人員整理にはナンデモカンデモ反対の自治労をバックにする野党(民主党)にもその資格はないだろう。

年金も大事である。税金も大事である。しかし、根本は無駄な経費歳出削減ではないだろうか。全国に議員とつく名の人が何万人もいる。こうした無駄な議員を減らす「議員削減」という歳出削減策を唱える政党はないのであろうか。

日曜日, 7月 22, 2007

N響「夏」2007公演

一昨日(20日)は梅雨明け予定日なのに、東京は相変わらずの梅雨空でしたが、そんななかNHKホールでのN響「夏」2007公演に行ってきました。指揮はチェコ出身の新進気鋭のトマーシュ・ネトピル。ピアノは昨年の「第6回浜松国際ピアノコンクール」で優勝したアレクセイ・ゴルラッチ。

演目(※はアンコール曲)
モーツァルト/歌劇「フィガロの結婚」序曲
ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第5番「皇帝」
ドヴォルザーク/交響曲第8番ト長調作品88
※ブラームス/ハンガリー舞曲第4番

アレクセイ・ゴルラッチはウクライナ出身の弱冠19歳。顔にはまだあどけなさが残り、背もさほど高くないので15歳〜16歳の少年にも見える。

第一楽章。始まってすぐのオケだけの演奏のところで、ゴルラッチは体を前後にゆっくり動かしながら、頭のなかで情景を描いているのか、それとも自分の感情を高めているのか、自分のリズムを作りだそうとしている。そして、ピアノ演奏に入ると彼は時には繊細に、時には荒々しく、音楽そのものを自分の世界に引き込んでいく。このピアノ協奏曲「皇帝」の第一楽章はきらびやかにとよく言われるが、彼は自分のもっている若さという特権でベートーヴェンに挑もうとしている。しかし、彼は決して背伸びをしているわけではない。ただ、没頭したいだけなのだ。彼には指揮者を見る余裕もないし、自分をいかに表現するかだけで精一杯なのだ。でも、若々しくていいではないか。

第二楽章。ここではゴルラッチの若さが露呈される。ベートーヴェンにしては甘美に書いた旋律を、彼は残念ながらまだうまく奏でることはできない。でも、彼は第一楽章同様一貫して真摯な姿勢でピアノと向き合う。

第三楽章。ゴルラッチは一転して自分の殻を破りたいが如く、激しく激しくピアノを奏でる。それはベートーヴェンが描くエネルギッシュな世界を破りたいという意志の表れであろう。彼はおそらくまだ自分のピアノに満足していないに違いない。もっともっとピアノが上手くなりたいという少しアマチュア(少年とでもいおうか)な面でベートーヴェンに向き合っている。それでもいいではないか。終演後の観客の拍手も明らかに「少年よ、その若さを忘れるなよ」という暖かいものであった。

それにしても、最近のNHKホールのピアノはよく鳴る。よく響く。そして、よく奏でる。ソリストがいいのか、指揮者がいいのか、オケがいいのか、ピアノがいいのか、調律師がいいのか。(ホールがいいことはない)。あの赤鬼ルドルフ・ブフビンダーのブラームス、名演奏だった清水和音のラフマニノフ、そして今回のゴルラッチ君の「皇帝」とNHKホールでのピアノ協奏曲に外れがない。こうなると、来年4月以降のAプロのピアノ協奏曲3連チャンがめちゃくちゃ期待される。

休憩を挟んでのドヴォルザークの交響曲第8番も非常に楽しめた。トマーシュ・ネトピルは1975年生まれとまだ若い指揮者ですが、その指揮ぶりはとにかくダイナミックでエレガント。指揮者を野球の投手に例えるのは少し愚かかもしれないが、彼は背は高いがアンダースローの本格派投手という感じがした。往年の阪急ブレーブスの山田久志のように200勝投手になれるような資質の持ち主だ。現在、彼はヨーロッパの数多くの歌劇場でタクトをふっているようだが、彼のように直球も変化球も自在に投げられる指揮者はオケピのなかではなく、舞台の上でも大いに振る舞ってもらいたい。敢えて苦言を言わせてもらえれば、アンコール曲のハンガリー舞曲の指揮ぶりはちょっとノリノリ過ぎでした。

でも、これもドボ8を指揮を終えて嬉しさからきた若さなんだろう。とにかく若さが全面に表れたN響にしては珍しいみずみずしい演奏会だった。おかげで、帰りの飲み屋の酒も清々しかった。

金曜日, 7月 20, 2007

日系人の不屈の精神と努力に感謝

私は1970年代の4年余を北カリフォルニアで過ごした。このほかに、80年代に全米を2度に渡って半年以上のバックパッカー生活をしたことがある。こうしたアメリカ滞在中および旅行中に、私は幸いにして直接的な人種差別を受けたことは一度もなかった。

北カリフォルニアには日系人が数多く住み、古くから日本との結びつきもあり、現在では日本人に対する差別はまったくと言っていいほどない。しかしながら、それは戦時中の強制収容所生活など屈辱的な差別を跳ね返した日系人の不屈の精神と努力の賜物である。今日、日本人がアメリカで差別や侮辱を受けない生活を送れるのは日系人のおかげ以外のなにものでない。

アメリカは移民の国である。そして、常に新しく移民してきた民族が最下層になり、どんな仕事でもしなければならない、ある種の差別的構造社会になっている。19世紀後半の東海岸では、イタリアン、アイリッシュ、ポーリッシュが最下層に位置づけられ、西海岸では中国人、日本人が差別を受け、第2次大戦後はフィリピーノ、メキシカンがその対象となり、70年代以降はベトナミーズ、コーリアン、イラニアンと続いている。

そして、こうした移民たちの存在が黒人たちの差別不満へのはけ口にも利用されたり、労働力を競わすことによって、アメリカの社会構造が成立している。アメリカにはもう差別がないという人がいるが、残念ながら“格差”という名の差別が歴然と存在している。これは社会構造の根底が変わらない限り消えることはないだろう。

現在、アメリカで暮す日本人の方々は日系人に対して尊厳と敬愛の念をいただきたいと思う。と同時に、できれば時間のあるときに日系人の歴史を少しでも勉強してもらいたいとも思う。

※写真はマンザナール収容所跡地
2006年に日系の上院・下院議員がなどの提案によって、アメリカ議会は全米各地に点在する日系人強制収容所跡地を、アメリカ史の重要な史跡として保存する法案を可決した。この結果、跡地は国立公園局によって管理されている。

全米日系人博物館
http://www.janm.org/jpn/main_jp.html

水曜日, 7月 18, 2007

天気に身勝手な日本人

今年の梅雨は肌寒い。これが本来の姿なのかもしれないが、ここ数年は梅雨でも30度を越える日が何日もあった。東京では気象庁の梅雨入りフライング宣言後の1週間は暑かったが、それ以降は30度を越える日はほとんどない。各地の平均気温もどうやら軒並み下回っているようだ。

日本人はやたら天気に対してとやくいう人種だと思う。私もその一人であるが、あまりにも都合のいいことを言う人が多い。日本には四季があり、季節に敏感にならざるをえないのは解るが、暑い日が少し続いただけども「猛暑だねえ」「暑過ぎだよなあ」と言い、寒い日が続いたりすると「ちょっと寒過ぎる」などと言う。また、なんでもかんでも異常気象と言って片づけるニュース番組のキャスターもいる。

全国的にはあまり知られていないが、先日の台風4号のおかげで四国の水がめ・早明浦ダム(高知県)の貯水率が100%に回復した。そして、四国4県などで組織する吉野川水系水利用連絡協議会は、香川・徳島両用水の取水制限を52日ぶりに解除し、15日に対策本部を解散した。今後は「予想以上の降雨で渇水は解消したが、今後も相当量の流入が見込まれるため、洪水対応に全力を挙げていく」と話している。水不足から今度は洪水である。

あれだけ「水不足、水不足」と騒いでいたのに、貯水率が100%になるや「お騒がせいたしましたが、台風のおけげ水不足は解消しました」の一言も言わない。なんとも身勝手な話である。これも1億総白痴化ならぬ1億総天気予報士化してしまった結果なのかもしれない。まあ、あまり人のことは言えた義理ではないが、ご都合主義の天気に対する不平不満を言うのだけは止めてもらいたい。日本にはそういう人が多過ぎる。

火曜日, 7月 17, 2007

オーストラリア・バレエ団 白鳥の湖

ちょっと変わった『白鳥の湖』であった。オデットをダイアナ妃、ジークフリートをチャールズ皇太子、ロットバルトをカミラ夫人に置き換えて構成されている。人によっては斬新と受け取られるかもしれないが、このような設定変更はシェイクスピア劇や歌舞伎の名作の現代演劇化した芝居を数え切れないほど観ているので、私にとっては新鮮味はあまり感じられない。

第一幕はオデットとジークフリートの結婚式。これが全く面白くない。男性陣の衣装が軍人の礼服や軍服ばかり、女性陣もロングドレスばかり。衣装がバレエ本来の身体表現を消している。構成も振付もバレエがもつ肉体表現を完全に無視して、演劇に走り過ぎで、明らかにバレエの領域を逸脱しすぎ。まるで三文オペラのような有様だった。モダンでありたいのはわかるが・・・。

第二幕はサナトリウムに収容されたオデットが見る夢の世界。これが俄然おもしろい。盆を斜めにしたような舞台装置がシンプルでいい。そして、この幕では白鳥たちの踊りが続く。その踊りには精密さはないにしろ、非常に大らかで優美。やっぱりバレエはこうではなくてはと思わされる。

第三幕はオデットとロットバルトがジークフリートを奪いあう舞踏会。ここでやっと第一幕の演劇性と第二幕のバレエ本来の舞踊の面白みが融合する。しかし、男性陣の衣装はタキシード姿で最終的に一度も男性陣の身体性をいかさない。これにはがっかりのお客さんもいるのではないだろうか。この舞台では男性陣はまるで刺し身のツマでしかないようだ。エンディングは結局、オデットは亡くなりジークフリートは悲嘆にくれるという悲劇で幕を閉じる。

出演者のなかでは、オデットよりジークフリートを演じたルシンダ・ダンが群を抜いて上手かった。しかし、もっとも目をひいたのは指揮者のニコレット・フレイヨン。第一幕はあまり鳴っていなかったオケ(東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団)を、第二幕以降は完全に自分の掌中にいれて、踊り手たちを見事に援護射撃していた。第二幕以降の盛り上がりは彼女の力によるところが大きい。もう一人、目をひいたのが第一幕では第一王女を、第二幕では二羽の白鳥の一羽を、第三幕ではイブニングドレスの女性を踊ったゲイリーン・カンマーフィールド。実は私は帰るまでプログラムを買わなかったが、彼女と指揮者を知りたいがために2000円もするプログラムを買ってしまった。次回はぜひとも彼女のように若くて魅力的なダンサーによるオデットを見せてもらたい。

日曜日, 7月 15, 2007

忠犬ハチ公はトグロを巻いて寝ていた!?

私の本籍地は現在の渋谷西武B館辺りである。というのも、戦前私の祖父の家がここにあったからだ。父はそこで1917年(大正6年)に生まれ、1929年(昭和4年)から1937年(昭和12年)まで渋谷駅より東急東横線に乗って、都立大学(現・首都大学)の前身である旧制府立中学・府立高校に通った。

同じ頃の1924年(大正14年)に、秋田県から一匹の犬が松濤町・大向小学校(現在の東急本店)の隣にあった東大農学部教授・上野英三郎博士に家にやってきた。その名はハチ。ハチは博士に可愛がられたが、翌年に上野博士は急逝。その後はご存知のように、ハチは来る日も来る日も渋谷駅でご主人様の帰りを待ち続け、1935年(昭和10年)に亡くなるまで10年にも及んだ。

ここまで書けばお解りだろう。私の父は嫌がおうでも数年間に渡って毎日のようにハチを見ていたのである。父の話によると、当時の国鉄(現JR)渋谷駅の改札口は、現在の南口近辺にあり、東急東横線の改札口はそれよりも少し南にあったそうだ。ハチは基本的に国鉄渋谷駅改札口周辺をウロウロしていたという。なぜならば、現在は三千里薬局があるところにあった焼鳥屋さんのご主人に可愛がられていたからそうである。そんなハチのことを父はテレビで映画『ハチ公物語』が放送されるたびに、「ハチ公はあんなに綺麗じゃない。もっと薄汚いし、改札前で座って待ってなんかいない。いつもトグロを巻いているように寝ていたよ」と元も子もないことを言っていたのである。(笑)

ハチが有名になったのは、1932年(昭和7年)に東京朝日新聞の「いとしや老犬物語」からである。この記事によって、それまで “野良犬” 扱いだったハチは一躍 “忠犬” となり、誰もが「ハチ公」と呼ぶようになった。1934年(昭和9年)にはハチ公はまだ生存しているにもかかわらず、ハチ公像が作られ、日本青年館で「忠犬ハチ公の夕べ」なる盛大な催しも開かれ、すっかり「渋谷の顔」となった。

ハチが亡くなった後、私の父は府立高校から上野博士が務めていた東大農学部に進み農林官僚となり、今は上野博士やハチ公もいる青山墓地で静かに眠っている。ハチ公とは不思議な因縁があった。

写真は上から、ハチ公、府立高校(都立大学)、柿の木坂駅(都立大学駅)

ハチ公に関する記述は↓が一番詳しく、おそらくもっとも史実に近いと思われる。
http://www.jsidre.or.jp/hachi/hachi-ex.html

追記:今度『ハチ公物語』がハリウッドでリチャード・ギア主演(兼プロデューサー)でリメイクされる。

金曜日, 7月 13, 2007

梅雨明け宣言はいつだろう?

気象庁は6月14日に関東甲信地方が梅雨入りしたと発表した。ところが、その後の1週間はほとんど雨が降らず、この梅雨入り宣言は完全にフライングだった。東京が実際に梅雨らしいジメジメした天気になったのは6月21日以降になってからである。

さて、そんな気象庁のフライング宣言は無視して、今年は久しぶりに梅雨らしい梅雨で、“体内天気予報士”(笑)の私としては嬉しい限りである。九州では大雨になって困っているところもあるが、梅雨は農作物を育てるためには無くてはならない季節である。今年は全国各地にまんべんなく雨が降っているようで、農家の方々は実りの秋が楽しみに違いない。ただ、場所によっては日照時間不足という問題もでてきている。

こうした梅雨のまっただ中でデパートでは、傘の売れ行きが異例の伸びを見せているそうだ。日本橋の三越日本橋本店では、6月からの傘全体の売り上げが平年の2割増とか。なかでも雨にも紫外線予防に対応する「晴雨兼用傘」が大人気とか。そしてその理由は天気予報不信で、「最近は天気予報も当たらないから」との声が聞えるそうである。

気象庁は関東甲信地方の梅雨明けは平年7月20日ごろで、「今年は平年並み」と予想しているようだが、果たして結果はどうなるであろうか。“体内天気予報士”の私はもう3〜4日ぐらい長引くような気がしてならない・・・。

梅雨入り即梅雨明け?
http://k21komatsu.blogspot.com/2007/06/blog-post_15.html

水曜日, 7月 11, 2007

裁判員制度と検察審査会

裁判員制度というのが何かと話題になっている。裁判員制度とは重要な刑事裁判で、無作為に選ばれた国民が裁判員となり、裁判官と共に審理をする裁判制度のことである。裁判は原則として、裁判員6名裁判官3名の合議制で行われ、2009年(平成21年)5月までに開始される予定になっている。裁判員制度が適用される事件は、原則として地方裁判所で行われる刑事裁判のうちの傷害致死、殺人事件などとなっている。

それでは、どうしてこのような制度ができたかといえば、国民の司法参加によって裁判官ではない市民が持つ常識感覚を裁判に反映すること、裁判時間を短縮することが目的とされている。

この裁判制度が開始されることによって、国民は一生に一回ぐらいは国民の責任として裁判員になる可能性がでてきた。ただ、高齢者や重い病気をもった人、親族の介護・養育が必要な人などは辞退することができる。

私は2000年に半年間、東京第一検察審査会で補充員の仕事をした。このことについては下記のHPに詳しく書いてある。そのときの経験から「人が人を裁く」ということを痛感した。というのも、検察審査会は「裁判をするかしないか」を判断するだけの機関なのに、それでも人の人生を左右するのということが解ったからである。

今度の裁判員制度は検察審査会と違って、直接人の人生を左右する判決を行わなければならない。大変な重責である。自分にはそんな資格はない、と言って逃げ出したくなる人も多いだろう。しかし、自分は微力な人間と思っている人の市民感覚が一番重要であり、それを反映させるのが今度の裁判員制度である。

今日の裁判は判例主義的な固定化した制度になっている。これでは裁判制度がマンネリもしくは空洞化してしまう。それを打破するためにも、市民感覚の意見および考えを取り入れられる裁判員制度は画期的なことを司法の世界に持ち込めるかもしれない。

もし、あなたが裁判員に選ばれたら是非とも参加してください。「人が人を裁く」という重責がいかに大変であるかを学ぶと同時に、自分自身が今後どう社会ならびに司法というものに関わっていくかということを学ぶことができると思います。

東京第一検察審査会
http://www.macnet.or.jp/co/ok21/kensatsu_flame.html

裁判員制度
http://www.saibanin.courts.go.jp/

火曜日, 7月 10, 2007

この夏に行くバレエ&クラシック公演予定

7月〜8月はバレエやクラシックなどはシーズンオフになるために、普段の月に比べて公演数は減少します。それでも、最近は「子供のための」と称するコンサートが数多く開かれ、また地方公演もあるので、演奏家たちは結構忙しいようです。そんななかで、私が今後行く予定の公演は下記の通りです。

7月13日(金) 開演06:30 PM 東京文化会館
◎オートララリア・バレエ団
 [振付] グレアム・マーフィ
 [指揮] ニコレット・フレイヨン
 [演奏] 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
 [音楽] ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー
 [演目] 白鳥の湖

※この公演はあのダイアナ妃をモチーフにした『白鳥の湖』のようです。
http://www.nbs.or.jp/stages/0707_australian/index.html

7月28日(土) 開演03:00 PM ミューザ川崎
◎東京都交響楽団
 [指揮] 宮本文昭
 [ピアノ]児玉桃
 [曲目] モーツァルト:歌劇「魔笛」序曲
      モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番イ長調K.488
      ラヴェル:ボレロ

8月4日(土) 開演03:00 PM ミューザ川崎
◎NHK交響楽団
 [指揮] 山下一史
 [曲目] バーンスタイン:キャンディード序曲
      ドビュッシー:クラリネットと管弦楽のための第1狂詩曲
      ホルスト:吹奏楽のための第1組曲(吹奏楽)
      R.デューハースト:ブラジリア
      打楽器奏者達によるリズム遊び
      バーンスタイン:ウェスト・サイド・ストーリー

8月12日(日) 開演03:00 PM ミューザ川崎
◎東京交響楽団
 [指揮] 大友直人
 [ヴァイオリン]神尾真由子
 [曲目] ベルリオーズ:劇的物語「ファウストの劫罰」より
      “ハンガリー行進曲”
      ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
      ペレグリ:クリザリッド
      サン=サーンス:ヴァイオリン協奏曲第3番ロ短調作品61
      ラヴェル:バレエ音楽「ダフニスとクロエ」第2組曲

ここに書かれた以外の公演にも行くかもしれませんが、やはり夏ですね。食指を動かすものは少ないです。秋には数多くの外国オケが来ますので、その資金づくりのためにも夏は仕事に専念したいと思います。

日曜日, 7月 08, 2007

正しい箸の持ち方・使い方できますか?

仕事柄というか趣味でテレビの紀行番組やグルメ番組をよく見ます。そこでいつも気になるのが、レポーターを務める芸能人たちの箸の使い方です。これがあまりにも酷いです。例えば、NHKの看板番組をもっていている笑福亭鶴瓶、「まいう〜」という流行語まで生み出した石塚英彦、うんちくを言うわりには全く箸の使い方がなっていない中尾彬などなど、あげればキリがありません。

このことはテレビドラマの食事場面でも同じ。子役タレントはちゃんとできているのに、親のタレントはできないなんて滑稽なホームドラマを見たことがある。ドラマなのだから少なくともディレクターは持ち方や使い方をちゃんとさせる演出ぐらいできるはずである。

これらの箸の持ち方、使い方がなっていないのはテレビだけではなく、世間一般でも同様である。ラーメン屋や牛丼屋に行って、周囲の人を観察してみてください。男性も女性も半分以上は正しい箸の持ち方、使い方ができていないと発見すると思います。

それでは、どうしてこうも箸の持ち方、使い方が悪くなったかというと、その最大の理由は、給食の先割れスプーンだと言われている。確かに我々の世代も給食で先割れスプーンを使っていて、嘆かわしいことに私の周囲にも未だに箸を使えない輩がいっぱいいる。しかし、この先割れスプーンは1980年代後半より学校給食で徐々に使われなくなるようになった。それでも、現代の若者のなかには箸をまともに使えない人は多い。これはどうやら親が先割れスプーン世代で、子供にまともに箸の使い方を教えられないらしい。

欧米などの日本食レストランでは、箸袋に箸の使い方がイラスト入りで書かれている。日本でもコンビニ弁当の箸に同じよう表示したらいいのではないだろうか。親や人から教えてもらうことを嫌う人でも、箸袋に書かれていれば自ずから学ぶかもしれない。

ちょっと前の新聞に興味深い記事が載っていました。長崎県の佐世保女子高校では、来春の入試から「箸の持ち方」を検査項目に取り入れることを決めたとか。これは生活習慣や、食べることに対する最低限のマナーが身についているかを見ることが狙いだそうだ。そして、合否判定に一定程度反映させるとのこと。マナーの基本は箸の持ち方からということなのだろう。

未だに箸を使えない方、また小さなお子さんを持つ方、いまからでも遅くはありません。正しい箸の持ち方・使い方を取得しましょう。お子さんが大人になってから「親の顔を見たい」などと言われないためにも、今すぐに箸の使い方を取得しましょう。

正しい箸の持ち方
http://www.tcn.zaq.ne.jp/777/hashi.html

木曜日, 7月 05, 2007

井上由美子オリジナル脚本ドラマが2本

第25回向田邦子賞を受賞した脚本家の井上由美子のオリジナル脚本ドラマ作品が立て続けに2本放送される。

1本目は先週土曜にスタートしたNHKの『新マチベン』。今回の『マチベン』は60代にして弁護士になった3人(渡哲也、石坂浩二、地井武男)が「レグラン(オトナの)法律事務所」と名付た事務所を開き、新米弁護士として奮闘する姿を描く。新米といっても人生経験が豊富であるからそれなりの心構えがある。しかし、法曹界ならでの駆け引きに慣れていないために苦境に立たされたりする。

井上由美子は前回の『マチベン』やテレビ小説『ひまわり』で法律ドラマを手がけているが、今回は団塊世代の男たちの悲哀も触れるようなので非常に楽しみにしている。なお、『マチベン』とは町医者のような弁護士と、弁護依頼を待ち続ける弁護士の二つの意味を掛けたものである。

2本目は7月9日からフジテレビ月9で放送される『ファースト・キス』。内容は井上真央演じる超ワガママな妹が真面目な兄(伊藤英明)を翻弄するラブコメとか。これが井上由美子にとって初めて書くゲツクであり、初のラブコメ。スタッフは『のだめカンタービレ』が再結集して行う。社会派ドラマ得意の井上由美子がどうラブコメを書くのかが興味津々。期待と不安が交錯するドラマになりそうだ。

日曜日, 7月 01, 2007

NHK交響楽団 アシュケナージさよなら公演

一昨日(29日)梅雨空の下、NHKホールでのN響第1597回定期公演に行ってきました。指揮はこの公演をもって音楽監督を退任するウラディーミル・アシュケナージ。彼は2009年よりシドニー交響楽団の音楽監督に就任予定になっている。

演目
ベートーヴェン/交響曲第6番ヘ長調「田園」
ベートーヴェン/交響曲第7番イ長調

この日のNHKホールはなんか異様な雰囲気に包まれていた。チケットは完売。3677人も入るホールが2日連続完売なんて過去にあるのだろうか。理由はアシュケナージ最後の指揮ということもあるが、演目がベト6&ベト7ということもあるのではないだろうか。『のだめカンタビーレ』で一躍有名になったベト7。会場は若い聴衆がいっぱいである。先日の『N響★カンタビーレ』は休日の昼公演ということで家族連れが目立ったが、この日は音楽を専攻している学生や若いカップルがロビーに溢れていてとても華やかだった。いいです、こういう若い聴衆が増えたこと。先週のラフマニノフに続いて、N響の敷居も低くなったんだなあ、と実感した。

しかし、この日の演奏会には梅雨というか湿度という難敵がいた。NHKホールはもちろん空調はしっかりしている。それでも、客席は満席で蒸し蒸ししている。ビニール袋に入れているとはいえ濡れた傘が会場にあるので湿度は簡単には下がらない。楽器を少しでもかじったことがある人なら周知のことであるが、湿度は音の響きを悪くする。特に弦楽器は音が伝わりにくくなる。木管や金管にしても楽器内に水滴が溜りやすくなり、微妙な音の調整が難しくなる。もちろんティンパニーなどの太鼓も張りが悪くなり音が鈍くなってくる。

こうした最悪の状況下でベートーヴェンの第6番『田園』が演奏されはじめた。

第1楽章。あの有名なメロディが聞えてくる。誰もが息を飲み込み、その音色を聞く。案の定、弦の音色が悪い。特にヴァイオリンが・・・。演奏そのものは一糸乱れていない。テンポもリズムも悪くない。でも、あのメロディがモヤっとした空気のなかをさ迷っている。とても「いなかに着いたときの愉快な気分」という楽章名とはほど遠い気分であった。

第2楽章。ここは金管と木管の聴かせどころなのだが、音色がくすんでいる。「小川のほとり」で小鳥たちのさえずりを表現するはずなのだが、その小鳥がなんか鳥カゴに入っているようで、会場内には見えないバリアーが張られているのではないかと思ってしまう。そんな決して良いといは言えない雰囲気のなかで、アシュケナージは体を大きく揺すって、音を引きだそうとしている。

第3楽章「いなかの人々の楽しいつどい」。冒頭にホルンが高らかに鳴り響き、そのあとにチェロやヴィオラがメロディを奏でていく。やっとオケにエンジンがかかってきたのか、N響メンバーも湿度と楽器の調整になれてきたようだ。やっと本来のN響の力を発揮してきた。聴衆側も安心して聴いていられるようになってくる。やっぱしこうでなくちゃ。そして、「雷とあらし」の第4楽章に突入していく。外が雨だからというわけではないが、音がしっくりくる。

第5楽章「牧歌。あらしのあとの喜びと感謝」。来ました、来ました、N響ならではの低音部の響きと弦の一体感。木管も金管も雲の隙間から光を照らす光明を想像させるような音色を奏でる。アシュケナージならでのロマンティックな表現も伝わってくる。そして、最後は静かにして厳かな音色が会場内を覆っていた霞を消していった。

名演奏とまではとても言えないが、非常にまとまりのある演奏だった。パチパチパチ。

休憩時間を挟んで、交響曲第7番。最後の第4楽章だけは大いに盛り上がりましたが、それ以外はテキスト通りのごく普通の演奏。『N響★カンタビーレ』のときは若々しいN響を聴けたと書いたが、この日のN響は威厳こそ感じませんでしたが、我々は正統派なんだぞという妙なプライドを感じてしまった。今度はN響自体が妙なバリアーを作ってしまって、ちょっと残念でした。

前音楽監督のシャルル・デュトワは繊細でちょっとお洒落な音色をN響にもちこんだ。それに対して、アシュケナージはロマンティックにしてお茶目な音色をN響に求めてきたような気がする。日本のオケのほとんどはドイツ的な重厚な音色を志向している。N響もその一つであろう。ただ、この二人の音楽監督が持ち込んだ刺激は新鮮であり、ある意味挑発的だったのではないだろうか。次の音楽監督はまだ誰になるかわからないが、できれば今度は重厚にして明るく開放的な音色のサウンドをもった人になってもらいたい。そのためには北米のオケで指揮者として経験のある人を招聘してくれないかなぁ、と密かに期待している。

最後に、アシュケナージさん、楽しい音楽を本当にありがとうございました。ブラボー!