金曜日, 2月 04, 2011

時代が「八百長」の証拠を残してしまった

そもそも「八百長」という言葉は大相撲と深い関わりがある。

明治時代、八百屋の「八百長(やおちょう)」の長兵衛さんと大相撲の年寄・伊勢ノ海五太夫は囲碁仲間だった。囲碁の実力では本当は長兵衛さんの方が上回っていたが、店の商品を買ってもらうために、わざと負けたりして伊勢ノ海の御機嫌をとっていたりした。しかし、相撲が行われていた回向院近くの碁会所開きに来賓として来た本因坊秀元と互角の戦いをしたために、長兵衛の実力が知れわたるようになった。このことから、事前に示しあせて勝負の決着をつけるインチキ行為のことを「八百長」と呼ぶようになった。

この八百長相撲はおそらく江戸時代から行われていた。ただし、江戸時代から明治中期頃までは力士のほとんどは文盲であったことから、八百長のやりとりはすべて口頭(本人もしくは付け人などを介して)で行われていたために、証拠というものうは一切残らなかった。

明治中期以降、力士のほとんどが読み書きができるようなってからは、口頭だけでなくメモ書きも使われるようになっただろう。しかし、こうしたメモ書きは部屋にある火鉢などによってすぐに燃やされていたから、この時代も証拠が残ることはなかっただろう。

そして、時代は昭和30年代に入り、大相撲は年6場所、十両以上は月給制となった。そして、世間一般に電話が普及した。ここからはおそらく電話でのやりとりが主体であっただろう。もちろん、部屋に電話がかかってくるのだから、親方をはじめ誰もがその内容を知っていたに違いない。しかし、証拠が残ることはなかった。ところが、数年前ぐらいからはメールでもやりとりするようになっただろう。そして、ついに証拠が残ってしまった。

なお、現在名前の浮かび上がっている力士たち(下記 ↓)は一人を除いて日本人ばかりで、彼らは「過去にはない」と言われる「八百長」の伝統をしっかり継承していただけなのである。ただし、証拠を残してしまった。

春日錦   千葉県いすみ市
(竹縄親方)
清瀬海   愛知県名古屋市
恵那司   岐阜県恵那市
海鵬    青森県西津軽郡深浦町
(現谷川親方)
霜鳳    新潟県新井市
光龍    モンゴル・ウランバートル市
豊桜    広島県広島市
旭南海   鹿児島県大島郡天城町
若天狼   北海道根室市
白乃波   熊本県宇土市
山本山   埼玉県さいたま市
千代白鵬  熊本県山鹿市
霧の若   熊本県阿蘇郡長陽村

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