火曜日, 5月 22, 2007

チャーリーの奇声

アメリカで学生をしていたとき、いろいろなバイトをしました。“ガーデナー”という名の芝刈り屋さん、ワイナリーでの観光客相手に樽のなかでの“ブドウ踏み”、日本料理レストランでの皿洗い、リムジンカー(といってもリンカーン)の運転手兼ガイド、日本語クラスのヒアリング・アシスタントなどなど。

これらのバイトは基本的に違法である。しかし、学費を含めて最低でも月500ドルはないと生活ができない時代に、300ドルの仕送りしかもらっていなかったので、バイトをせざるをえなかった。そんななかで、学内でのバイトは大学公認であり、移動することもないので楽だった。といっても、私ができるバイトは限られていて、数学や東洋史(現代史)のテューターと、ハンディキャップ・スチューデントの世話をするぐらいしかなかった。簡単な皿洗いは当時アメリカに大量に来たベトナム難民の学生に振り向けられた。ちなみに、学内でのバイト代は、法律で決められた最低賃金の時給2ドル10セント(現在は5ドル 15セント)だった。

こうしたバイトのなかで一番印象に残っているのは、半年しかできなかったがハンディキャップ・スチューデントの世話である。私が担当したチャーリーは電動車椅子に乗り、その上うまく言葉が喋れません。彼と会話するときは身振り手振りとマジックボードを使います。

世話といっても大したことをするわけではありません。一番大変だったのは、雨が降ると外では電動車椅子が使えなくなるので、校舎間をバッテリーにカバーをして、雨の中を車椅子を押していかざるをえません。これが案外きついのです。電動車椅子が重たい。片手に傘をさしてゆっくり押すなんてことができないので、ズブ濡れになるのです。一方、チャーリーは傘をさして、私をドイツ語(彼はドイツ生まれ)でからかったりするのです。で、あるとき、頭にきた私はコートを彼の頭にすっぽりかぶせて、思いっきり早く車椅子を走らせました。そしたら、彼は奇声をあげて喜んでいるではありませんか。まいりました。(笑)

このときのこうした経験などから、ハンディキャップの人はハンディキャップが不幸なのではなく、他人とのコミュニケーションができないのが不幸なのだ、ということを強く悟りました。今考えれてみれば、貧乏学生だったからできたバイトであり、できた経験だったのかもしれません。若いときは少し苦労した方が視野は広がるものなのでしょう。

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