月曜日, 1月 21, 2008

大河ドラマで俄然注目の人、小松帯刀

NHK大河ドラマ『篤姫』の重要な役どころで瑛太が演じている肝付尚五郎。後の小松帯刀(たてわき)はこれまで大河ドラマをはじめとした歴史ドラマで全く描かれることがなかった。同様に時代小説でも詳しく描かれているものはほとんどない。

私の描いていた小松帯刀像といえば、薩摩藩の家老にして島津斉彬および久光の懐刀というぐらいの認識しかなかった。それが今回の『篤姫』で俄然クローズアップされたので、同姓というよしみあって、その存在をちょっとネットで調べてみた。するとどうだろう、驚いたことにこの小松帯刀という人物は坂本龍馬と並ぶぐらい、ドエリャー明治維新の立役者ではないか。新鮮な驚きであった。

小松帯刀は1835年(天保6年)薩摩藩喜入領主・肝付兼善の三男として生まれる。幼少時代の名を尚五郎といった。

1856年(安政3年)、指宿郡吉利領主・小松清猷が琉球出張中に急病で亡くなったために、藩主島津斉彬の勧めによりあり、尚五郎が急遽清猷の妹お近と結婚、婿養子となって小松家の家督を継承した。そして、翌年小松帯刀清兼と改名する。

当主になった帯刀は領内改革に取り組み、その手腕を発揮する。その一方で、吹上浜の雑木林での兎狩りや、若者たちによる相撲などを催しては、無礼講にて家臣および領民の意見などを聞き入れるなど、またたく間に「小松家の名君」として藩内では知らないもの者はいない存在になった。

1861年(文久元年)、帯刀は長崎に赴き、電気・水雷の研修を受け、帰藩後、磯の藩邸で実演を行っている。また、この年薩摩藩主となっていた島津久光に手腕力量を認められ、側近となり薩摩藩の藩政改革に取り組みはじめ、琉球や清国の貿易、また他藩と交易することで藩の財政を敢行した。そして、その資金を利用して教育、軍事整備を行い、薩摩藩の活性化と近代化に貢献した。

1862年(文久2年)、帯刀は27歳の若さで家老職に就任する。また、帯刀は大久保利通に請われて下級藩士の勤皇グループ・誠忠組の指導者にもなる。

1864年(元治元年)、7月の蛤御門の変では、帯刀は西郷隆盛らとともに薩摩軍を指揮して御所を防衛した。

この頃より帯刀は藩主・久光の意向を汲んで、京都において公武合体及び幕政改革を推進し、朝廷や幕府、諸藩との連絡・交渉役を務め、薩摩藩の指導的立場を確立した。そして、坂本龍馬らと懇意になり、薩長同盟樹立のために藩論をまとめるべく奔走した。

1866年(慶応2年)、京都二本松薩摩藩邸において、坂本龍馬を間に入れて帯刀と西郷隆盛の薩摩藩と木戸孝允の長州藩が会談。全六箇条からなる盟約が成立した。その内容は幕府による長州征伐に備えた攻守同盟で、幕府の出方次第では薩摩藩の京都で軍事行動も含まれていた。また翌年には薩摩藩と土佐藩の盟約である薩土同盟を成立させ、京都で帯刀はその外交手腕をいかんなく発揮した。

1867年(慶応4年)11月、徳川慶喜が二条城にて大政奉還を発したとき、帯刀は久光の名代つまり薩摩藩の代表として参上している。しかし、この頃より帯刀には痛風もしく糖尿病と思われる病魔が忍び寄せていた。

1868年(明治元年)、明治新政府の発足にあたり、帯刀は参与職と総裁局顧問、外交事務掛などの要職を歴任した。大久保利通らと版籍奉還を画策し、藩政改革案を作成する。しかし、翌年には病気のためにすべての職を辞して、療養に専念するものの、1870年(明治3年)7月20日大坂で病死した。享年36歳だった。

小松帯刀は西郷隆盛や大久保利通より年少になるが、下級武士に過ぎなかった西郷や大久保、そして脱藩者である龍馬などが活躍できたのも、2600 石の家老であった帯刀の庇護によるものが大きかった。また、その人柄は明快にして寛容であり、誰からも人望が厚かった。なかでも坂本龍馬による帯刀の評価は高く、新政府の人事構想が話題になったとき、坂本龍馬は西郷、大久保、桂などを抑えて、帯刀を筆頭に推薦していた。また「パークス伝」には「小松帯刀は非常に知恵があり、応対の見事な人であった」といい、大隈重信は「容貌、風采とも立派で、気品があり、薩摩人には珍しい雄弁家で、寛仁大度の人だった」と語っている。

このように帯刀に対する評価は非常に高く、もし帯刀が長生きしていれば、明治政府の中核の一人として、三条実美や岩倉具視といった公家とは一線を画して、大久保らと共に辣腕を振るっていたに違いないだろう。36歳の若さで亡くなったのがつくづく惜しまれる人物である。そして、同様に坂本龍馬のことについて書かれている本が幾十冊もあるのに、小松帯刀のことについて書かれている本がほとんどないのが不思議でならない。

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